第20話 赤ん坊、部屋を見直す

 勤務終了の頃合い。ヴァルターに起こされ、赤ん坊車に乗せられる。

 いつもの習慣で、未読の本を二冊、一緒に乗せてもらう。


「そだ、ばるた」

「何でしょう」

「ひっきようのいた、じゅうまいくらい、らいしゅうよういして」

「はい、筆記板十枚ですね、分かりました。明後日の朝、あればよいのですね?」

「ん」


 そんな話をしながら部屋を出て、後宮入口へ向かう。

 なおここで、今までも使ってきている『筆記板』と『書板』という言葉は、ほぼ同じものだ。文字通り『筆記に使うための板』を指すが、ある程度の区別として、まだ文字を書いていない真っさらのものを『筆記板』、すでに記入済みのものを『書板』と表現することが多い。混用しても、たいていは意味が通じる。

 それでも今の会話で、有能な文官はまだ未記入の新しい板を用意してくれるはずだ。


 入口前には、いつものように、扉番とナディーネが立っている。

 車の持ち手を交代して、毎日のやりとりに、ヴァルターは一言追加した。


「明日はお休みですので、ルートルフ様にお部屋で休んでいただけるように、よろしくお願いします」

「かしこまりました」

「では、また明後日の朝、お迎えに上がります」


 一礼して、文官は戻っていく。

 部屋に入り。

 この日は、夕食も完食できず、瞼が落ちてきた。

 入浴も省き、寝台に入れられてたちまち意識を落としていた。


 目を覚ましたときには、窓の隙間が薄明るくなっていた。

 陽は昇っているらしい。ここへ来てからずっと早寝の反動で暗いうちから目覚めることが続いていたのだが、珍しい。

 しかしまあ、これだけ熟睡できたというのは悪いことではないだろう。頭の疲労も消えている、気がする。

 それにしても、どれだけ眠っていたことになるのだろう。執務室での仮眠の分を加えると、もしかすると半日以上ということになるのではないか。


――まあ、本来の赤ん坊としては、おかしいということもないのか。


 隣の部屋の方には、何も動く気配がない。

 たぶんまだ、朝一の鐘も鳴っていないのだと思うけど。さすがに頭は目覚めきっている。

 ごそごそと起き出して、僕は傍の椅子によじ登る。

 ここのところの暗いうちからの習慣のまま、置かれた本を開くことにする。

 全国の植物の情報は読み尽くして、今度は動物のものだ。

 ただ、植物について読み終わったとはいうものの、これまでの資料で全国のすべてについて網羅されていたとは到底思えない。

 以前読んだベルシュマン男爵領の植物図鑑は、前領主の趣味でかなり詳細に調べられたらしくほぼ現状を網羅していたようだが、他地域のものはそこまでではない。調査、記録具合も所によってばらばらだ。

 それでもそうした植物の種類についての調査は学術的要請があるのか、ある程度全国的に広がりが及んでいた。

 一方で、それらの植物が実際に何らかの形で利用されているのか否か、明らかな農産物についても各地域でどのような栽培法がされているのか、などの情報はほとんどない。

 ヴァルターに指示して各爵領での農業実態の資料を集めさせても、ほとんど通り一遍のものしかない。大雑把にどんな作物が栽培されているか程度で、畑の使い方も輪作等の有無も、何も分からない。

 以前にも感じたが、この国、現状の記録や情報伝達の習慣が著しく欠けているのではないか、と再認識してしまう。

 もしかすると、自領の情報を外に出しては損失、とばかり秘匿しているのだろうか。それともそこまでさえ考えず、記録の必要に思い当たらないのだろうか。

 今見ている、動物に関する図鑑らしきものは、さらに杜撰だ。ヴァルターによると王宮にある中で最も詳しい資料、ということだけど。

 一応、国内に存在している代表的な野生動物は一通り記載されているらしい。しかしその棲息分布、農作物や人の生活への影響については、ほとんど簡単にしか触れられていない。

 昨日聞いたアドラー侯爵領のイノシシの件のような生きた情報など、到底求めようもなさそうだ。

 結局思うに、動物についても植物についても現状様々な問題点を抱えていそうで、見直しの余地もありそうな気はするのだけど。


――すぐに手をつけるのは、無理そうだなあ。


 自分で全国の実態調査に回ることはできない。

 各領地に調査報告を指示して、という手順を考えると、早々の進展は望めない。

 今抱えている貿易問題の解決には、間に合わないだろう。

 各爵領の情報把握がこの程度ということなら、そちらは当面諦めるしかない。


――とりあえずはまず、近場から、と思うしかないか。


 王都近郊の畑や森の調査については、道筋が見えた。

 あとは、都内の産業の実態だろうか。

 木工業が盛んということだが、その辺で何か輸出に繋げる製品開発はできないか、という辺りだろう。

 とにかくどれも、実際見てみないことには何も思いつきようがない。


 そんなことを考えているうち、一の鐘が聞こえてきた。

 間もなく、隣に起き出す気配。

 休日ではあるけど、王宮の一日が始まる。


 ナディーネが起こしに来て、セルフ着替え。

 朝食。

 朝の日課を一通り終えると、することがなくなった。

 いつもの出勤時刻を過ぎて、習慣の実績もなく、無聊をかこつしかなくなってしまう。

 そのまま食事のテーブル前に座っているだけ。ナディーネも身を退いて、自分の小テーブルの席にぼんやり着いている。

 何とはなしに見回していて、唐突に気がついた。


――この一週間、自分の部屋をよく見たことがないんじゃないか?


 連日、夜帰ってきて食事の後は、バタンキュー。

 朝は日課の後、すぐ出勤。

 考えてみるとこの居間でさえ、座っているこの椅子より窓側に足を進めたこともない。


――何ということでしょう!


 妙な衝撃めいたものに、一人ツッコミを入れてしまう。

 自分の部屋に、何の遠慮も要らないはずだ。

 よいしょ、と高い椅子から慎重に滑り下りる。

 窓際へ向けて、よたよたと足を進める。

 首を傾げてはいるけれど、ナディーネが寄ってくることはなかった。絨毯が敷かれただけでほとんど何もない部屋、つまずいて怪我をする心配もない、という判断だろう。

 窓は、人の背丈ほどの一枚ガラス。

 疑問の余地なく、かなり高価なものだろう。

 ガラス窓など、領地の男爵邸には一枚もなかった。王都の館の正面に、小さなものが一枚あっただけ。

 この王宮でも、隣の寝室も執務室なども、すべて窓は開いて明かりとりをする木の板製だ。

 つまり、この居間だけ飛び抜けて贅沢な作りになっている、ということになる。

 当然、他の王族の居室も同様だろう。国王や妃たちの部屋はもっと豪華かもしれない。

 外を覗くと、王宮横手から裏へかけての芝生と花壇、その向こうに林が見えている。

 この部屋の下はただ青い芝生で、かなり左手の方に色鮮やかに咲き誇る花壇が脇見できる。おそらくあちらの妃たちの部屋からは、すぐ正面にそれらが鑑賞できるのだろう。

 奥の林は、一度城壁で区切られて、そのまま王都の外まで鬱蒼と続いているという。

 たぶんここから見て右手の方向にあの植物見本用の畑があるはずだが、建物の陰になって見通せない。


 一通り外景を観察した後、壁沿いに回って応接用椅子とテーブルに触れる。これも、執務室のものよりそこそこ高級そうに見える。

 しかし、この応接セットの用途が分からない。この後宮棟に入ることのできる人間は限られているのだ。おそらく妃たちや王子王女が互いを招待したり国王が訪れたりするときのためのものだろうが、僕にそのような訪問者の予定はありそうにない。

 まあ、こうしたものは当然あってしかるべきもの、と異論の余地なく設置されているのだろうけど。


――これがなかったとしたら、室内がますます殺風景すぎるし。


 深く追及は、しないことにする。


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