第21話 赤ん坊、散歩に出る 1
そのままよちよち、壁を伝う。
外への出入口の前を過ぎ。
近づいていくと、ようやくナディーネは椅子から腰を上げた。
その脇を過ぎ、傍らの扉へ。
ぱたぱたと叩くと、侍女が歩み寄ってきた。
「おトイレですかあ?」
首を傾げながら、ドアを開いてくれる。
入って、右手がトイレだが、僕は左手に向かう。
すぐ奥の扉を、ぱたぱた。
「こんなところ、つまんないですよお」
ますます不審そうながら、扉を開いてくれた。
一応自分の縄張りの中で、ここだけ未見の部屋なのだ。
まあ、予想はついてるけど。
覗いた中は、かなり地味な装飾の小部屋だ。
窓も照明もないので背後からの自然光だけで窺う限り、おそらく数名の侍女用の休憩所らしいところに、今はナディーネが寝泊まりしているようだ。
奥に二段ベッドが一組、左手に簡易めいたベッドが一台設置されている。他には小さな衣装棚らしいものが一つ。
ナディーネは二段ベッドの下を使っているようで、簡易ベッドの上には小さな鞄が置かれている。彼女の荷物はそれだけらしい。
あまり見るのも悪いので、そのまま壁を伝い、元の居間へ戻った。
小さく溜息をつきながら、侍女はドアを閉じている。
今ここは三人泊まれるようになっているが、もっと人数のいるところでは二段ベッドを増やしているのか。あるいは泊まり番は交代制で、残りは別の生活場所があるのか。
少し疑問は起きるが、まあ今深く考える必要もなさそうだ。
現状、ナディーネが一人でここに泊まっている、という確認で十分だろう。
そこを離れ、元のテーブルに寄ろうとしていると、後ろから抱き上げられた。
そのまま、寝室の方へ運ばれる。
「お掃除しますので、しばらくこっちにいてくださいね」
なるほど、と素直に従うことにする。
テーブル前の高椅子に座らされたので、そのまま朝の読書の続きに戻った。
その後には、僕を居間に移動してナディーネは寝室の掃除をしていた。
とは言え、ちらり覗いても大がかりな作業ではない。ほぼ毎日掃除しているのだろうから、通り一遍、という感じに見える。
テーブルの上を拭き、ベッドのシーツを交換して整える。
シーツと着替えを室外に持ち出してすぐに戻ってきたところを見ると、洗濯係は別にいるのではないかと思われる。
毎日の食事にしてもできたものを運んできて、食器も運び出すだけ、という決まりのようだ。
してみると、この侍女の最重要任務は部屋の掃除ということになるのだろう。
ふだん僕がいない昼間、掃除以外の時間は何をしているのか、少し疑問が浮かぶ。
掃除片づけが終わった頃には、昼食の頃合いになっていた。
昼食の後には、ますますやることがなくなった。
高椅子に座って腹の落ち着きを確かめていると、自分の食事と食器片づけを終えたナディーネも手持ち無沙汰に自分の席に着いている。
しばらく考えて、僕はのそのそ椅子から下りた。
入口脇に置かれている赤ん坊車に歩み寄り、胸の高さほどのその箱の縁に手をかける。
ぱたぱた叩いて、侍女の顔を見る。
「え、何ですか、何処か行くんですか?」
首を傾げながら立ってきて、持ち手に掌を乗せてくる。
そのまま箱縁を掴んでくいくい押し、僕は戸口に向かってみせた。
「え、え、部屋の外行くんですか?」
扉を開けてもらうと、絨毯敷きの廊下に出る。
箱に掴まり歩きの格好で、いつもの出口とは逆、後宮の奥へと向き直った。
あんよの運動を兼ねて、まだ行ったことのない、奥の見学をしておこうと思うのだ。
赤ん坊車は掴まり用途と、どれだけ歩くか分からないので体力尽きた場合の帰還手段だ。
「お散歩したい、ということですね。あまり勝手な方に行かないでくださいよ」
ナディーネの注意は、こちらに伝わると想定してのものではないだろうけど。
言われずとも、僕の進入が認められる場所とそうでないところがあるだろうことは、想像がつく。
禁止場所には、先んじてナディーネが引き戻してくれるだろう。
ということで、けっこう気楽気分で僕はとてとて歩みを進める。
他の王子王女、あるいはさらに妃たちの居室だろうか、かなり間隔を置いて豪奢な扉が右壁に続く。左側には外に向かう板窓が、今は好天のせいだろう、どれもほぼ全開されている。
扉を五つやり過ごして、廊下はT字路の形に突き当たった。正面には飾りの少ない扉が、間隔を置いて三つ。左右の廊下には今までと同様の絨毯が続く。
左奥の廊下かなり先の途中に、階段があるのが目についた。
右奥は、何となく絨毯の柄が艶やかになっている気がする。
そちらへ一歩踏み出しかけると、車はくいと引き戻された。
「そちらは、行ってはいけません」
なるほど、と覚えることにする。
おそらくだけど、正妃ら高位の妃たちの居室、ということになるのではないか。
今度は左に向き直っていると。
がたり。
正面右寄りの戸が開いて、侍女らしい身なりの女性が出てきた。
粗雑ではないものの、少し急いだ様子で。
「本当に、あの子ときたら――あら、ナディーネじゃないの」
「あ、お疲れ様です、ヨハンナさん」
「ということは、そちらが例の赤ちゃん様かね。お散歩? ――まあそれはどうでもいい、あんた、カティンカを見なかった?」
「見ていませんよ。今、お部屋からここまで歩いてきたところですけど」
「そうかい」
会話の調子からして、深く考えるまでもなく、ナディーネの顔馴染みの先輩、ということだろう。
口調の砕け具合から、女官長など高い職位というほどではない、という感覚だ。
「ええと――もしかして、カティンカ、また――?」
「そうさ。言いつけた仕事しないで、何処か逃げてしまったみたい」
「ええと、つまり、あの――でも、あの子――」
「分かっているよ。分かってはいるけど、今日のは大丈夫、と思ったんだけどねえ。あの子ときたら、まったく――」
「はあ」
「とにかく、探さなきゃ。外に出ていってないか、見てくるよ」
言い置いて、ヨハンナという侍女は足早に左手へ進んでいく。気忙しそうだが、姿勢を崩さず、見た目の品を抑えて。後宮使用人教育の賜物、ということだろう。
そのままナディーネは立ちつくしていたが。
「失礼します、ね」
いきなり僕を抱き上げ、車に乗せた。
そうして持ち手を押し、先輩侍女の去った方向へ歩き出す。
見ると、ヨハンナは先の階段方向へ曲がり、階下へ下りていったようだ。
ナディーネも少しだけ急ぎ加減の歩調で、遅れて階段前に着く。
上がるのか、下りるのか、と見ていると。侍女は廊下の左右を見回している。
誰もいない、と確認したようだ。
素速くナディーネは車を押して、上り階段の裏手へ滑り込んだ。
見ると、陰に小さな戸がある。
部屋の入口、という規模ではなく、ちょっとした物入れ、というところか。
まだ背の低いナディーネでも、入るとしたらかなり身を屈めなければ無理だろう。
その戸を開き、迷いなく半身を潜り込ませる。
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