第22話 赤ん坊、散歩に出る 2

「いるの? カティンカ」

「う……」


 脇から覗き込むと、中は真っ暗かと思いきや、そこそこ深い奥がぼんやり薄明るくなっている。

 手前から両側に積み上がっているのは、薪だろう。その奥手にうずくまっていたらしい影が、びくりと動く。してみると、薄明るいのは加護の『光』か。


「あんた、何だってまた――」

「だって、だって……」

「とにかくあんた、出てきなさいよ。ここ入ってったら、わたしまで汚れちゃう」

「うん……」


 すすり泣き混じりのような声を返しながら、意外と素直に中の人物は出てきた。

 ナディーネが戸口から身を退くと、ごそごそと同じメイド服姿が、絨毯の上に足を下ろす。

 半泣き声からもっと小さな子を想像してしまったが、屈み姿から足を伸ばしたその人物は、ナディーネより頭一つくらい長身だった。年も一つか二つ上なのではないかと思われる、青っぽい灰色の髪を後ろで一つに結わえた少女だ。

 手に持っていた木の板を扉の中に置き、エプロンとスカートを手で払っている。

 ちらりと見えた板には、木炭を使ったらしい花の絵が描かれているようだった。妙に手の込んだ、精密画っぽい。


「またあんた、そんなの描いてたんだ。何、また言われたお仕事の指示、分かんなくなったの?」

「うん。階段の手摺り拭くの、これはできたんだけど……あと、水汲みだったか、何だったか……」

「分かんなくなったんなら、訊けばいいじゃない」

「また、怒られる……」


 長身の背を丸めて、まるっきりナディーネより身長も年齢も下に見えてしまう様子だ。

 はああ、とナディーネは溜息をついた。

 僕の車を押して、階段方向を覗き込む。


「手摺り拭くのは、ちゃんとできてるじゃない。他のもちゃんと言いつけを聞く、分かんなければ訊き直す――」

「だって……」

「ほら、戻ろう。一緒にヨハンナさんに説明してあげるから」

「うん……」


 狭い陰から廊下へ戻った。

 そこへ、図ったように階段下から声がかけられた。


「あ、いたじゃない、カティンカ!」

「は、はい、ごめんなさい!」


 大きな身体をますます縮こめている後輩へ、ヨハンナは足速に寄ってくる。

 もう一度溜息をついて、ナディーネが説明する。


「そこの廊下で、途方に暮れていました」

「まったく、この子は――」

「その、あの……水汲み? でしたっけ……」

「水汲んできて、洗濯石鹸とってきて、洗濯組に加わって。今日洗濯の一人が具合悪くて休んじゃってるから、わたしも采配で天手古舞いなんだよ。ちゃんと指示しなかったのも、悪かった。分かったら、動いて」

「はい――水汲み、石鹸、洗濯……」

「そうそう、ちゃっちゃと動く!」

「はい――」


 ぱたぱたと、カティンカは駆け出していった。


「走るんじゃない! 上品にって、いつも言ってるでしょ!」

「はい――水汲み、洗濯――あれ?」

「石鹸!」

「はいい――」


 やはりぱたぱたと、慌ただしい足音が遠ざかる。

 見送って、ヨハンナは「はああ」とあからさまに大きな溜息をついた。


「本当に、あの子は――」

「お疲れ様です」


 わずか苦笑いめいた複雑な顔で、ナディーネは先輩を労った。

 先輩の方も、ほとんど同じような表情を返す。


「どうも。いやでも、あんた、腹立ったりしてるんじゃない? 自分のときはもっと厳しくされたのにって」

「いえ、いや、でも……」

「あんただったら、きつく言ったらすぐ覚えてくれるって、安心して怒っちゃってたけどね。あの子にあんな『こっちも悪かった』なんて言い方、本当はしたくないんだけど、そうじゃないと頭抱えて動かなくなっちゃうんだから。ああでも言わないと、まるっきり仕事になりやしない」

「はは……ちゃんと言ったらカティンカだってちゃんとやりますからね。今日だってその手摺りは、本当に綺麗にしてるし」

「本当にね。手間かかったりしてもやることはできてたりするから、女官長も今すぐ見放すって言わないんだよ。でもそれだって、いつまで辛抱されるか分かったもんじゃない」

「はあ」

「それにこのままじゃ、いつまで経っても部屋付きにはさせられないよ。あんただって、もう三か月かい? 部屋付きやって分かるだろう。いちいち一つ一つ指示しなきゃできないなんて、言ってられないの」

「はい、分かります。あるじの様子見てその都度判断しなければならないですから。特にパウリーネ王女殿下は……」

「カティンカなんかつけたら、たちまちご機嫌を損なってお終いでしょうね」

「はあ……」

「まあ、今はそんな話してる場合じゃない。向こうは天手古舞いなんだった」


 苦笑いのまま、ヨハンナは元の方へ戻り出す。

 横に並んだナディーネの手の先、つまり箱の中の僕に、その視線が向いてきた。


「それにしてもその赤ちゃん様、本当に大人しいんだねえ。ちっともぐずらないし、さっきからまるで、わたしたちの話聞いているみたい」

「はい、本当に。まだ泣いているところを見たことないぐらいなんです」

「へええ、手がかからなくてよかったねえ。昼間はどこかへ連れ出されているっていうんでしょう? あんたそう言えば、その昼間には王女殿下の部屋の方、手伝いに戻っているんだって?」

「はい、あっちはいくらでも人手が要りますから」

「言っちゃ何だけど、今の部屋の方でいくらでもさぼっていられるんだろうに、感心というか。まあ、王女殿下の方と縁は残しておきたいものねえ、いつでも戻れるように」

「はい、まあ……」

「まあ、腐らずにやりなさい。見ている人は見ているから」

「はい」


 元のT字路のところで先輩と別れて、ナディーネは部屋へ帰還の道を辿った。

 僕は大人しく、車に乗って運ばれていく。

 運動と邸内探検はともかく、情報はかなり得られた気がする。


――主に、お喋りなベテラン女官のお陰で。


 部屋に戻ると、僕は応接用椅子に座らされた。

「こっちの方が座り心地いいんじゃない?」と言うナディーネの手で。

 確かに質のいい布を何枚も重ねたらしい座面は、お尻に優しい感触だ。もたれかかる背板側も、同じように柔らかい加工がされている。

 今日のささやかな冒険の成果を反芻しているうち、いつの間にかうとうとが訪れていた。


 目を覚ますと僕は二人用椅子に横になって、胸から下に厚めの布がかけられていた。

 それほど気温は低くない夏の昼下がりだが、ナディーネが気を遣ってくれたようだ。

 その侍女の姿は、見えない。かなり陽が傾いた頃合いだから、夕食の運搬に出かけたのかもしれない。

 さっきまで書き物をしていたらしく、小さなテーブルの上に木の皮と石盤が乗っている。

 近寄って覗くと、家から届いた手紙を手本に字の練習をしている、という感じだ。

 おそらく、字を読めはするが書けない、という現状なのだろう。石盤にくり返し書かれている文字の一種類はやや不格好ながら何とか形をなしているが、もう一種はおそらくこの世に存在していない形状になっている。

 木の皮の手紙と見比べて、納得した。手本となるべきその書き手のいくつかの文字が、かなりの癖字で読みとりにくいのだ。


――なるほど。


 頷いて、そこを離れる。

 部屋をうろうろ歩いていると、ナディーネが戻ってきた。

 出かけた目的は、想像通りだったようだ。


「夕食です」


 テーブルに深皿と匙が置かれ、寄っていった僕は高い椅子に抱き上げられる。


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