第110話 赤ん坊、指導する
そうして作業を続けていると。
ゴンゴン。
戸口に、叩く音がした。
侍女や女官の
ニコールが立って、戸口に寄っていった。
「
少し待つが、返答がないようだ。
首を傾げ、剣の柄に手を置いてニコールは薄く戸を開いた。
戸板を押さえて外を覗き、もう一度首を傾げる。
開きを広げて、廊下を見回す。
ところへ。
「わ、え?」
護衛の足脇をするりと抜けて、駆け入ってくるものがあった。
たたた、と駆け、見回し、獲物を見つけて目を輝かす。
「きーー」
「待たれよ」
すぐさま僕目がけて突進しようとした小柄な侵入者を、たちまちテティスが背後から抱き押さえた。
ききき、と両手足を振り回す立派な身なりの子ども。
見まちがえようもない、第二王子、ウィリバルト殿下だ。
どうも先夜の僕と同様、小さすぎて護衛の目に入らなかったらしい。
「――なせ、は――なせ」
「いけません」
完全にテティスに抱き上げられて、両手足をばたつかせている。
定位置に座ったまま、僕はその顔を見返した。
「でんか、ひとのへやにらんぼうにはいる、だめ」
「だめ?」
「じじょにさきぶれさせて、きょか、とる」
「めんどーだ」
「でんか、おうぞく。れいぎ、おぼえなきゃだめ」
「む……わかった」
暴れが収まったので、テティスは子どもの足を床に下ろした。
ただ、腹に回した両手はまだ解かない。
「ようこそ、おうじでんか」
「お前、何でいない?」
「はい?」
「庭」
ああ、と気がつく。
ウィリバルト殿下、先日会った裏庭で僕を探していたらしい。
「いつもは、にわにいない」
「いなきゃ、だめ」
「あうなら、やくそく、ひつよう」
「約束?」
「これも、じじょにさきぶれさせる」
「めんどー、王族、めんどー」
「おうぞくじゃなくても、おなじ。ひとには、ちゃんといわなきゃ、つたわらない」
「むう」
「きょう、じじょには、ことわってきた?」
「え、何?」
首を傾げている――という様子を見なくても、まあまちがいないと思われる。
いつものことなのだろう、何も告げずに飛び出してきたに違いない。
「おつきのものにことわらなきゃ、だめ」
「めんどー」
「ちゃんとはなしたほうが、めんどすくない」
「え」
「じじょがさきぶれしたら、そんなふうにつかまらない」
「そう?」
「ちゃんといえば、つたわる」
「そう」
すっかり大人しくなって、ウィリバルトは少し考え込んでいる。
テティスの腕が、その腹回りから離れた。
やはり、話せば理解できる王子らしい。
しかし、それにしても。
――何でこんな、一歳児が六歳児に指導説教せないかんのやん。
「で? でんか、なんのようで」
「遊ぶ」
「はあ」
「ルーフと、遊ぶ」
名前が、中略されたらしい。
あまり今まで耳にしたことがない、ミリッツァの呼ぶ「ルー」より少しましか、という抜け方だ。
「そと、てんきわるい。へやで?」
「ここで、いい」
話していると、戸を叩く音がした。
今度は上品さの残る、侍女相当のノックだが、心なしか慌ただしさも感じられる。
まだその近くにいたニコールが、戸口によって呼びかけた。
「何方か」
「ウィリバルト殿下の侍女でございます。申し訳ございません、殿下がこちらにいらっしゃっていないでしょうか」
「確かに、いらっしゃっている」
こちらに確認の目を向けてから、ニコールは戸を開いた。
ぱたぱたと忙しなく、若い女たちが入室してくる。侍女が二人と護衛が一人だ。
そちらを見て、テティスは王子の背を離れ、僕との中間辺りに静かに移動する。
「殿下、やはりこんなところへ」
「お探ししましたよ」
主の脇に膝をついて、侍女はその膝の辺を払ってやっている。もう一人は背後から腋の辺りを押さえ、二度と逃がさないぞという構えだ。
――それにしても、なあ。
「こんなところ」?
いろいろと疑問を頭に流しながら、僕はしばらく黙ってそれを眺めていた。
王子の膝を払っていた侍女は、やがてすっくと立ち上がる。
「さあ、こんなところにいてはいけません」
「お部屋に戻りましょう、殿下」
「やだ」
侍女に手を引かれても、ウィリバルトは動くまいと足を踏ん張っている。
表情を険しくして、もう一人の侍女が後ろから抱き上げようとしている。
「やだ、遊ぶ」
「いけません」
「我儘を仰らず、戻りましょう」
「や――遊ぶ」
「いけません」
いつもにも増してがっしり踏ん張り、抵抗しているのだろうか。二人がかりでもなかなか子ども一人を動かせずに、難渋しているようだ。
王子の登場時からずっと作業位置で直立しているこちらの侍女たちも、困惑の顔を見合わせている。
椅子の上で嘆息して、僕はお取込み中の主従に声をかけた。
「でんか、おへやでしなければならないにっかとか、ある?」
「いえ、そういうわけではありませんが」
一人の侍女が、きっ、とこちらにきつい目を向けてきた。
よけいな口を出すな、と言いたいらしい。
ただ、とりあえず赤ん坊が口を聞くことに驚愕はないらしい、とは分かった。
「とくにようじがないなら、でんかのごきぼうをかなえることにしてもいいのでは?」
「横から口出しはご無用に願います」
答えている侍女は、なかなか堂々とした口ぶりだ。もしかすると、そこそこ身分のある出自なのかもしれない。
比べてもう一人は、少しおろおろしてきているように見える。
さてどうしようかな、と思案していると、こちら横でナディーネが一歩進み出た。
「畏れながら、一言よろしいでしょうか」
「何でしょうか」
「ここはルートルフ様のお部屋で、こちらはルートルフ様ご本人でいらっしゃいます」
「そうなんでしょうね」堂々とした侍女は鷹揚に頷いた。「敬意が足りない、と言いたいのですか?」
黙って、ナディーネは頭を低くしている。
どうも、少しは相手のことを知っているような様子だ。
相手も同様らしく、軽く鼻を鳴らした。
「こちらにお住まいとは申せ、男爵家のご子息なのでしょう? わたしも同じ、男爵家の娘です。ことさらにかしこまる必要はないと思いますけど」
「はい、存じ上げております」
さらに一つ、ナディーネは頭を下げた。
なるほど、と思う。相手は侍女とはいえ、貴族の子女だったということか。
同じ侍女でもここにいる他の者は平民と承知して、見下しているようだ。
――しかし、もし同じ男爵子女同士だとしても、礼儀無視でいい、というわけにはいかないと思うけど。
他人の居住に入ってきて主に挨拶もないなど、貴族でなくても非常識としか受け止められない。
ましてや子ども同士の外での交流というのならともかく、後宮内の別の部屋訪問というのは、かなり公式の意味合いを帯びる場なのだ。
加えてこの侍女、身なりからすると十五歳の成人を過ぎていると思われる。
主についている者の立場というのも、弁えていなければおかしい。
おそらくのところ、僕が赤ん坊だからとかなり存在を軽んじるべく情報が回っていて、王子部屋と格差をつける認識が続いているのだろう。
***
あけましておめでとうございます。
今年も赤ん坊をご贔屓に、よろしくお願いいたします。
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