第111話 赤ん坊、やり直させる

「ただ、僭越ながら申し上げます。ルートルフ様のお父上は、今は子爵でいらっしゃいます」

「そ――そうなの?」

「それに加えルートルフ様は、国王陛下と王太子殿下より、ここでは王族と同等に扱う、との仰せを受けていらっしゃいます」

「え……」

「その扱いで王宮で執務をせよという王命で、実際、ほぼ毎日王太子殿下とお顔を合わせて仕事をしておいでです」

「は――王太子殿下、と――?」


 侍女の目が丸くなり。かすかに足が震え出しているように見える。

 あの、女官長と同様に、ということになるか。僕が王太子と日常的に話のできる立場と聞かされて、自分の言動を思い返してにわかに恐怖を覚え出した、ということだろう。

 ただ当面の問題は、男爵令嬢と子爵子息の上下がどうの、ということではない。

 ナディーネに目配せして、僕は口を入れた。


「みぶんがどうの、より」

「は、はい」

「ひとのへやにはいるのに、じじょがれいぎむしというのみせては、でんかのためによくない」

「は、はい――たいへん、ご無礼――」

「でんか、きょうのはわるいみほん」

「うん?」


 相手を変えて、声をかけると。

 しばらくわけ分からない様子で沈黙していたウィリバルトが、きょとんと首を傾げた。


「もいちど、さいしょからやりなおそう」

「うん」

「ほかのへやほうもんには、まえもってじじょをとおしてきょかがひつよう。きょうはかりに、それはすんでることにして、ほうもんするところからやりなおす」

「分かった」

「じゃ、でんかごいっこうは、ろうかにもどって、そこからやりなおし」


 はい、と手を叩くと、あちらの侍女二人は慌てて主の手を引いて踵を返していた。

 ウィリバルト自身も何処か楽しいお遊びの気分らしく、揚々と連れられていく。

 こちらではシビーラが大きい目をさらに丸くして、カティンカを連れて奥に下がっていった。公式に客を迎えるていをするなら、準備が必要なのだ。


 しばしの静寂、の後。

 こんこん、と扉にノックの音が聞こえてきた。

 ニコールが戸口に寄っていく。


「何方ですか」

「ウィリバルト王子殿下でございます」

「はい、お入りください」


 扉が開かれ。

 先ほどの男爵令嬢侍女を先導に、一行が入室してくる。

 王子、もう一人の侍女、護衛、の順に。


――うん、露払い、太刀持ち、を従えてくるわけだ。


 何となく意味分からないまま浮かんだ言葉を、頭に思い流す。

 そうしながら僕は、応接ソファの近くまで進み出て直立で頭を下げた。

 こちらの使用人たちは、膝をついた最上級の礼になる。


「ようこそいらっしゃいました、おうじでんか」

「うん」

「本日はお招き、ありがとうございます」


 先頭の侍女が主に代わって挨拶した。

 この辺はもちろん、幼児と赤ん坊の社交なのだから、かなり簡略だ。そもそも正式な礼儀応答など、僕も知らない。


「あかんぼうのみなので、せいしきなぎれいをとれぬこと、おゆるしください」

「うむ、許す」

「どうぞ、こちらへ」


 応接用ソファへ導き、席を勧める。

 僕は向かいのソファに、ナディーネに抱き上げられて座らせてもらう。


「でんかにおかれましては、ごきげんうるわしゅう」

「うむ、そなたも」


 大真面目な顔で、短い言葉を返してくる。

 おそらくは公式な場に耐えられないという理由でほとんど表に出てこないのだろうこの王子も、少なくとも雰囲気だけでも取り澄ます経験は持つようだ。

 今のような「ごっこ遊び」のようなノリなら、短時間格好をつけることができるということか。

 後ろに控える侍女たちが、何処か信じられないものを見る顔になっていた。

「会話になってる……」と、男爵令嬢が低く呟くのが聞こえた。

 奥から、シビーラが盆を運んできた。

 王子の前に香り立つ紅茶を、僕の前には白湯を、最近ようやく入手した茶器で供する。横に砂糖壷が置かれる。

 給仕の侍女が下がったところで、僕は向かいに軽く会釈をした。


「それではたのしくおちゃを――といいたいけど、じつはこのさきのさほう、ぼくもしらない」

「そうなのか?」

「しょうたいがわのぼくが、さきにひとくちいただく、のかな?」

「そう……だな?」


 半分自信なさそうに、ウィリバルトは後ろの侍女を見た。

 男爵令嬢はじろっと僕を見て何か言いたそうにしてから、王子に頷きかけた。


「はい、主催側の主が先に一口召されるのが、作法でございます」

「ども」


「子爵子息のくせにそんなことも知らないのか」とでも言いたかったところを、思い留まったのだろう。

 さっきの鬱憤を晴らしたい気はあるだろうけど、赤ん坊相手にそんなことを口に出しても、笑いものになるだけだ。ましてや年上の王子も自信がない様子ときては、自分側に跳ね返って側仕えの恥にしかならない案件だろう。

 笑顔で礼を返して、僕は白湯に砂糖を入れた。

 ふだんこんなものは入れないのだが、主催側が先に一口というのは毒味の意味を兼ねてということだろうから、例外は作らないことにする。

 茶器を両手で持ち上げ、甘いぬるま湯を一口。飲み下して笑いかけると、ウィリバルトもカップを持ち上げた。

 口にして、わずかに顔がしかめられる。砂糖を入れても、まだ渋みが強かったのか。

 それでもこの『お茶会ごっこ』の場を壊さない程度の分別は働いたようだ。


「ほんとはここに、おかしがつくんだけど、きょうはいきなりだから、よういできない」

「残念」

「こんど、まえのひまでにさきぶれをくれたら、でんかがしらないおかし、よういする」

「本当か?」

「ん、やくそく」

「あした、あした」

「ふだんはぼく、しごとにでている。つちのひのごごなら、あいてる」

「来週は?」

「じじょに、よてい、かくにんして」

「どう? どう?」


 後ろを振り向いて、せっつき上げている。

 わずかに目を回した侍女が答える前に、僕は声をかけた。


「あいて、わかってるとかぎらない。ちゃんとわかるように、せつめいして」

「うん?」

「じじょがいまのはなしきいていなかったつもりで、わかるようにせつめいして、かくにんする」

「うん、うん?」


 首を傾げ、視線を宙に回して。

 それから頷き、侍女を見上げる。


「ルーフと、また遊ぶ」

「はい」

「来週、土の日、予定は」

「あ、はい。来週の土の日は、午前はお母様と懇談の予定です。午後からでしたら、空いております」

「なら、午後」

「かしこまりました」

「せいしきに、いらいよこして」

「うむ」


 にっこりと、笑顔が返ってきた。

 後ろの侍女は何処かぽかんと、主と僕の顔を見比べていた。

 その目がしばらく僕の上で止まったのは、「何なのこの赤ん坊は?」とでも言いたいのか。

 まだかなり不十分とはいえ、王子がそこそこ意味の通る言葉を寄せてきた、という驚きの余りらしい。


「でんかは、おちゃよりべつののみもの、がいい?」

「うん、うん」

「なららいしゅうは、べつのもの、よういする。りんごじゅーすとかでいい?」

「うん、うん」

「ぼくも、じゅーすのほうがいい」

「だよね、だよね」


 柔らかそうな金髪をわさわさ揺らして、何度も頷いている。

 王侯貴族の社交といえばまず茶を供するのがお決まりで、王子も貴族子息もそれに慣れるようにすべきなのだろうが、今はそれ以前の話だ。

 儀礼に沿って席に落ち着かせることをまず目標とするなら、飲物や菓子を好みに合わせるのも手段のうちなのではないだろうか。

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