第36話 赤ん坊、崇められる
「えーと――ルートルフ様?」
「ん?」
「その――その――」
「なに」
「その――どうして、ルートルフ様が?」
「だから、なに」
僕の机の前、二マータ以上くらいの距離をとって立ち止まり、ナディーネは訳の分からない逡巡の声を続けている。
何か知らないが、丸めた木の皮らしきものを右手に握りしめて。
見かねて、横手からヴァルターが声をかけた。
「ナディーネ嬢、どうしたんですか。分かるように話してください」
「その、あの――」
「何かあったのですか」
「さっき、その、手紙が――うちの父から」
「故郷の村にいるという、お父さんですか」
「はい、そこから。それが――村が救われた、王宮のルートルフ様のお陰で、と」
「はあ?」
いつになく貌に表情を出して、ヴァルターが僕を見る。
僕も、呆然。
ただ正確には、ヴァルターの驚きは、純粋に訳が分からないせいだろう。
一方の僕のは、何故自分の名前がそこに出たか、理解できないせいだ。
「何ですか、その、村が救われたっていうのは?」
「えと、うちの村、両親も含めて、ここのところ病気というか、体調の悪い人が増えていたんです」
「はい」
「それが先日、領主様の使い、お役所の人が来て、変わった食材を食べさせてくれた、これを食べたら病気が治るって言われて、まず気持ちが晴れただけなのかもしれないけど、体調よくなった人が続々出てきたって」
「それは、よかったですね」
「どんどんよくなる人増えて、よかったんですけど。そこでそのお役所の人に、『これは王宮のルートルフ様という人が見つけてくれた食材だ、感謝するように』と言われた、と」
「それは、いったい――あ、あれ? そのナディーネ嬢の故郷の村、何という?」
「アドラー侯爵領のボイエ村です」
「ああ、思い出した!」
勢いよく、ヴァルターは僕に向き直る。
そのときにはもう、僕は机の上で頭を抱えていた。
「あれですか? 先週、ルートルフ様がアドラー侯爵閣下にお話ししていた」
「……たぶん」
「あの対応がうまくいった? 確か、イノシシ肉の不足とか、言ってましたか」
「はい、それだそうです。お役所の人に言われて、村の年寄りが思い出したとか。ずいぶん昔にもイノシシ肉を食べられないことがけっこう続いて、弱って死ぬ人が出るまでになったことがあった。今回は早く対処したので助かったけど、もしかして大勢死んでいた可能性もあったのか、と大騒ぎになったそうです」
「それで、ルートルフ様の名前が?」
「はい、村はルートルフ様に救われた、とみんな感謝の祈りを捧げているそうです」
「……やめて」
「うちの村だけでなく、周囲のいくつかの村、皆同じだそうです」
「すごいじゃないですか、ルートルフ様」
「……かんべん」
「本当にルートルフ様が、領主様にお話しくださったんですか?」
「確かに先週、そんなお話をされていました」
「……なんでそこで、ぼくのなまえ、だすかな……」
「そこはそれ、アドラー侯爵、騎士団長閣下は、戦時でも他人の功を自分のものにするなどは武人の風上にも置けない、とことあるごとに説いている、公平誠実で有名な方ですから」
――あのヒゲのおっさん――余計なことしなくていいのに……。
「じゃあ本当に、ルートルフ様のお陰、なんですね?」
「ええ、そういうことになりますね」
ヴァルターの返答を確かめて。
いきなりその場でナディーネは、両手両足をぴしりと揃えた。
間髪を入れず、その腰が深々と折り曲げられる。
「ルートルフ様、感謝いたします。うちの村と両親をお救いいただいて」
「……やめて」
「このご恩は、一生忘れません。村人たちに代わって、わたしが必ずこのご恩に報いたいと思います」
「……そんな、おおげさ」
「そう言えば」
ぽん、とヴァルターが手を打っている。
「アドラー侯爵領の民たちは、代々の侯爵家の影響もあって、恩義を重んじる、たいそう義理堅い性格の傾向がある、と聞きます」
「はい、受けた恩を忘れるような軽薄な者は、おりません。いたとしたら、皆に軽蔑されて、あそこでは生きていけません」
「……ごたいそうな……かんべん」
「ですので、一生かかっても私が、このご恩は返します」
「あなた、ナディーネ嬢」
「はい?」
「ルートルフ様が、困ってらっしゃいます。この方は、公に目立つことはお好みではありません。ここしばらくベルシュマン男爵領で数々の功績を挙げながら、すべてその功は兄上に譲っていたと、聞き及んでいます」
「あれはほんと、あにうえのてがら」
「ですから、ナディーネ嬢もそんなに、大上段に構えず。今のお勤めを誠実に務めることを、ルートルフ様は最もお望みだと思いますよ」
「はい! 分かりました。わたし、身命を賭してルートルフ様にお仕えします」
「なでぃねさん、せいかくかわってない?」
「もしかすると、こちらの方がナディーネ嬢の正直な姿なのかもしれませんよ。今までが後宮に揉まれて、素顔を押し殺していたとか」
「ねっけつ、にがて」
「まあとにかく、しっかりお務めいただければ、ルートルフ様も助かると思います」
「はい!」
「じゃあまず、なでぃねのつとめ、じをきれいになること」
「はい、頑張ります」
ぴしりと直立の侍女を見て、ヴァルターはまた苦笑顔になった。
それから思い出したように、僕を見る。
「するとルートルフ様、そのボイエ村ですか、そこをナディーネ嬢の故郷と知っていらっしゃったわけですか」
「しっていた、いうより――わるいけど、なでぃねのてがみみて、しった」
「ああ。自分の他に赤ん坊しかいない部屋で、手紙を隠したりしないでしょうね」
「おちてたてがみ、ひろってもどす。なかみ、よめてしまった」
「ルートルフ様の本を読む速さ、ふつうじゃないですからねえ」
「それでルートルフ様に知っていただけたなら、幸運でした。これはまさに、神のさいは――」
「じゃあ、しごと、もどろ」
まずは、一通り室内の掃除をして。
ヴァルターに茶を、僕にぬるま湯を用意して。
それからナディーネは、熱心に字の練習に取り組み出した。
練習用の筆記板に何度も書き入れ、納得のいかないところをヴァルターに質問する。
苦笑しながら、ヴァルターも嬉しそうにつき合っている。
僕はその間、木工に関する読書だ。
しばらくして、訪問者があった。
王宮庁の使い、ヴァルターへの呼び出しだという。
「行って参ります」と、ヴァルターは出かけていった。
ナディーネも一度出ていったと思うと、絞った雑巾らしい物を手にして戻ってきた。
それで、さっきの掃除で残していた、ヴァルターの机を拭いている。
僕の机ももの言いたげに見てるけど、四つん這いの読書姿を見て諦めたようだ。
ちらちらとこちらに目を向けはするけれど、この短い期間のつき合いで、僕が静かに放っておいてもらいたい嗜好だということは察せられていたようで、そのままにしておいてくれる。
少しして、ナディーネは窓の外を見に立ってきた。執務室の外には、王宮の日時計が見える。
「お昼近いですね。今日はお食事を早めに、と伺っています」
「ん。さいしょうにめんかい、よてい」
「では、お食事を取ってきますね」
「ん」
部屋を出て、間もなく戻ってくる。
この日からナディーネの分もこちらに手配しているので、三人分の昼食を盆に載せて。
そこから、いつもの深皿の離乳食を僕の机に運ぶ。
もちろん本は片づけ、僕を椅子に下ろしてくれる。
そのまま横から見守られながら食事を始めていると、ドアにノックがあった。
「戻りました」
ヴァルターの声とともに、扉が開き。
文官に続いて、長身の人物が入ってくる。
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