第134話 赤ん坊、鼓舞する
「失礼いたしました。礼儀作法は教え込んだのですが、まだ付け焼き刃で」
「ん。こんごにきたい、だね」
「でも、はきはきして頼もしいです。わたしより体力はありそうですし」
メヒティルトが笑って感想を加える。
ヴァルターはそれに苦笑いを返していた。
――まあ、メヒティルトより体力がなかったら、侍女はできないだろうけど。
兄としてもその点については心配ない、ということらしい。
ヴァルターが最も案じていたのは、自分と主の目を離れたところで妹が真面目に修行に取り組むか、という点のようだが。
そこは、シビーラとナディーネがいるので大丈夫と思いたい。
特にシビーラには、厳しく仕込んでくれるように頼んである。
女ばかりの世界で先輩たちが寄ってたかって厳しく当たるというのもまた別に心配だが、リーゼルの場合、殊の外絵の勉強を楽しみにしているという言わば緩衝の条件があるので、それくらいでいいのではないかと思われるのだ。
勤務時間の大半はみんなで写本をしていることになるので、その辺の緩急はつけられるだろう。
いつもより少し遅れて、ヴァルターと朝の打ち合わせになった。
その後今朝も届いた通商会議の報告では、変わらず順調ということだ。
全体会議に引き続き、昨夜はとりどりに二国間の会談が行われた。
そこでシュトックハウゼンの代表に対して、例の古文書の訂正について伝えられたとのこと。感触としては、好意的に受け入れられた模様だ。
また、各国からの紙の注文がさらに増加している。
会議の際各国に進呈した紙見本をその後使ってみて、利便性がますます実感された。
初日の議事録を印刷して配付すると、一様に驚嘆された。
といったところが、注文増加の後押しになっているようだ。
この状況を受けて今日の午前からさっそく、すでに製紙業が始まっている領地に増産の打診が入れられているという。
当初考えられていた「紙は作っただけ売れる」という予想が現実となってきている。それも国内で損得を争うわけでなく、輸出による外貨獲得からのものなのだから、全国的に好景気に沸きそうな勢いだ。
孤児たちの製紙指導行脚は予定の半ばを超えたところだが、その順番を待ちきれずすでに稼働を始めた他領に研修者を派遣する領の動きも出ているという。
「いろいろな意味で予想を上回る好循環ということになりそうだと、王太子殿下もご満足のようです」
「ん、よかった」
とりあえずは一安心、だ。
こちらのヴィンクラー商会でも、今始めている製紙が確実に利益につながる動きということになる。
ということで、ヴァルターに引き続き王宮内の情報整理を託して、僕らは商会へ移動することにした。
この日の作業で紙漉きの手順をしっかり職員が身につければ、当初の運営が順調に動き出すことになる。
小屋の中ですでに準備ができていた一同を揃えて、一斉に紙漉きを始めさせた。ウィラとイーアンを手本にして全員に作業をさせ、僕とメヒティルトで細かく見て手つきや姿勢などをチェックしていく。とにかく最初の技術習得が肝心なのだ。
それでも午前中のうちに、全員が
「じゃあみんな、このちょうしでぞうさんにはげんで」
「はい、承知いたしました」
今後輸出が伸びるだろうという予想をマーカスに伝えて鼓舞すると、力強い頷きが返ってきた。
満足して王宮に戻ると、こちらでもかなりの朗報が待っていた。
ヴァルターによると、製紙業の梃入れで王太子が何人かの領主に当たったところ、皆先を争って増産に応じてきたという。
まだ指導行脚の途中なので、そちらの日程も見直しをかけることにした。
西回りのアルマとエフレムのグループは王都から南西のラッヘンマン侯爵領に入ったところだが、その後で回る予定だったフリッチュ伯爵領の人間もそちらに派遣されて、一緒に指導することにする。
同じく東回りのグイードとマーシャのグループも、ギーレン伯爵領にヒルシュ伯爵領の人間も呼んで、同時に指導する。
これで、三日後までには当初予定されていた全国分が終了することになる。つまりは、もともと待ちの姿勢だった領主がこの事態を受けて、積極的に人を派遣してでも早期稼働を目指す気構えになり、予定消化が早まったということになるわけだ。
領主たちの動きも喜ばしいが、僕にとって四人の帰還が早まることになるのがかなりありがたい。
ついでながら興味深いのは、他領に人を派遣する決断をするほどこの件に前向きになったというフリッチュ伯爵とヒルシュ伯爵は、それぞれ第四、第三王妃の実家だ。
「このところ見えてきていた、両伯爵が王太子殿下の施政に協力的な態度に変わってきているという傾向が、はっきり形をとったということになりそうですね」
「ん」
この伯爵たちにとってはもしかすると、僕の立ち位置が後宮で周知されたことも、態度軟化の要因になっているかもしれない。
形の上では総じて、国全体が一枚岩に近づいているということになるようだ。
他国と通じていて騒ぎを起こしたクーベリック伯爵が先日処罰を受けたのに加えて、今回の朗報で、飴と鞭ではないが多方面からの理由で皆が一つの方向を目指す流れになってきている。
最初の打診で製紙業に消極的だったいくつかの領も、考えを変える様子を見せてきているらしい。
「現金なもの、とも思ってしまいますが」とヴァルターは苦笑している。
それでも本当にこれで国がまとまる方向に進むなら、それに越したことはない。
この日は父が訪ねてきて、一緒に昼食をとった。
もちろん会議の報告が伝わっていて、こちらも満足の様子だ。
加えて、新商社で製紙の工程が順調に動き出したという報告に、大きく頷いている。
「うむ、これも朗報だな。私も後で時間を見て確かめに行くとしよう」
「ん」
「間もなく王宮向けに紙の出荷を始められる、と思っていいのだな」
「そ」
その辺の詳細は、父とマーカスで打ち合わせてもらうことにする。
後宮に戻るといつものように、侍女たちは並んで写本の作業をしていた。
その端で今日は、リーゼルが筆記板に木炭で絵の練習をしている。すぐ隣からカティンカの指導を受けながら、手本の模写ということらしい。
午前の感想を尋ねると、リーゼルは笑顔の眉尻を下げていた。
「頑張りました。けどお、たいへんでした」
部屋の掃除と片づけを習ったわけだが、実家でそこそこ経験はあってもかなり勝手が違ったらしい。
僕にはよく分からないけど、雑巾の絞り方一つにしても、平民の家と王宮では違うのだそうだ。
「たいへんだけど、がんばって」
「はい!」
一方で、絵の稽古は楽しくて仕方ないという。
ナディーネの話では、掃除を教えているときは鬼教官のごとくだったシビーラが、この時間にはまったく態度が変わっているのがおかしいほどだとか。
しきりと新人の手元を覗いて、「いいねいいね、先の上達が楽しみだ」と感嘆をくり返しているらしい。
確かに見てみると、簡略画の模写の手はしっかりしている。
本当に、練習を重ねれば進境は望めそうだ。
夕刻になるとまた、カティンカが執務室まで送っていく。
一日の付き合いで、すっかり二人は仲よくなったようだ。仲よしというより、リーゼルが目をきらきらさせて、「お師匠」と呼んでいる。この絵の指南にすっかり信奉しきったという様相だ。
これほど崇め持ち上げられた経験など生まれて初めてのカティンカが終始わたわた落ち着かない様子だった、とこれもナディーネの報告だ。
侍女見習いとしての働きも、初日としては申し分なかったらしい。
「師匠よりも筋がいいと思います」というシビーラの感想は、本人たちには聞かせない方がいい気もするが。
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