第135話 赤ん坊、段取りをつける

 三日間の通商会議日程を終えて代表団が帰国の途についた、という報告が入ってきた頃には、それぞれの新しい動きも落ち着いてきた。

 国内各地で製紙増産の態勢が調えられている。

 グイードたちの指導旅程も、間もなく終了する。

 王宮内では、四日後に迫った王太子の誕生会の準備で忙しなくなってきている。

 こちらではリーゼルもすっかり慣れて、侍女見習い修行も絵の練習も順調のようだ。

 新商会では製産する紙の品質も安定してきて、間もなく定量の出荷が始まることになっている。

 ――というわけで、どれもほぼこちらの手を離れてしまい。

 僕は執務室の机によじ登り、今日も心穏やかに読書に耽る。


「だんすくとしゅばーりんがーの、ごかねんせんそうにかんする、もっとくわしいしりょう、ないかな」

「それに関して、我が国には詳しい記録が残されていないようです」

「……わずか、80ねんちょっとまえのことだよね」

「はい」

「なんと……」


 この国だけなのか、他も同様なのか。歴史的出来事に関する記録の欠如には、何とも溜息が出るばかりだ。

 おおよそ八十六年前から八十一年前にかけて、隣国ダンスクとその西隣のシュパーリンガーの間で断続的に戦闘が続いていた。

 シュパーリンガーと友好を結んでいたグートハイル王国は、背面からダンスクを牽制する形で援護し、その過程でこの数百年間で何度目か、リゲティ自治領を支配下に置くことになった。

 二十四年前にダンスク軍の侵攻を受けて自治領を奪い返された以前、最も近い戦闘を伴う外交を行った時期のはずで。いろいろ参考にしなければならないと思うのだが。

 王宮図書館にある記録には、そういった出来事があった、という程度の記述しかない。あとは、先々代の国王について「リゲティ自治領を得るという、目覚ましい成果を挙げられた」という類いの華やかな表現が躍るばかりだ。


――王族や政権上層部以外には目にできない極秘資料として残っている、というのならまだいいのだけれど。


 他の件で王太子と意見を交わしたりしている過程で得られた感触では、それも望めそうにない気がする。

 ううむと唸り、ぱたんと板本を閉じる。

 横手でペンを走らせているナディーネの様子を見やり、考える。


――こんな薄っぺらな記録、写本する価値もないか。それとも、ないよりはマシということで採用するか。


 しばし悩み、侍女たちの手の空き具合を見て決めよう、と結論づける。

 自分の商会から買い上げることのできる紙の量も増えて、そこの節約に固執する必要も少なくなってきているのだ。


 そんなことを考えているうち、王太子とゲーオルクが訪ねてきた。

 今日は、久しぶりに正式な打ち合わせの予定が入っている。

 議題は、通商会議結果と王太子誕生会の予定の確認だ。

 定位置について、公爵子息は気忙しげに切り出してきた。


「製紙業に参画する領がさらに増えているそうだな。新しくドルダラー子爵とイーヴォギュン伯爵から申し出があったと聞いた。北方の領だが確か、最初の指導予定に入っていなかったところだな」

「うむ。当初は消極的だった領だからな。予定を外れていたから、早急にそれぞれエルツベルガー侯爵領とロルツィング侯爵領に指導を請いにいくよう、指示を出している。とりあえずその程度で見切り発車させてから、後日こちらから製紙場を視察に行かせる予定だ」

「泥縄みたいなもんだが、仕方ねえわな。今さら指導に回っている旅程を戻すわけにはいかないんだろう?」

「ん」

「それでもこれで、他国からの大量注文にも余裕をもって応じられることになるだろう」

「だな。しかしこうなってみると、ウェーベルン公爵領でなかなか製紙増産ができないのが残念だ。製鉄の方もますます生産量を増やす要請が出てきているしな」

「そちらも緩めるわけにはいかない。どうも最近、リゲティ自治領でダンスク軍の動きが焦臭くなってきているという報告もあるしな。国軍やアドラー侯爵領兵などの配備を見直すとともに、兵器の質改善も待ったなしだ」

「そういうことだからなあ」


 今すぐどうということではないだろうがゆめゆめ警戒を怠るわけにはいかない、と頷き合っている。

 いずれにせよ、その辺で僕の口を出す余地はないところだ。

 続けて確認される誕生会の予定も、ほとんどこちらに直接関連はしてこない。

 本の販売の件について、実物を用意してゲーオルクとヴァルターに計画させるだけだ。


「前にゲーオルクが言っていた、パウリーネに本やカータの宣伝をさせるという案だがな、舞踏会の時間に別室で学院入学予定の侯爵以上の息女と懇親をもつことになった。そちらでカータで遊ばせたり本を紹介したりすることで、その後の時間での販売に結びつけられるだろう」

「なるほど。販売の場で侯爵家が積極的になれば、他にも影響を及ぼしそうだな」

「ん。いい、おもう」


 話に出たついでに、新しく作ったカータを一組ずつ、この場で二人に献呈した。

 商会での製紙が安定してきて、カータ用の紙まで試すことができるようになったのだ。

「おう、ありがとう」と、ゲーオルクはご機嫌で受け取っている。


 昼はまた、父と会食。

 父もこのところ王太子誕生会の準備絡みで忙しいようだが、その分外を飛び回る必要がなくなったので、昼食は落ち着いてとれている。

 また商会の方には、父と僕でおおよそそれぞれ一日置き、交互に短時間顔を出しているという現状だ。

 僕が製産面、父が経営面についての確認や助言を会長と行い、それをこの昼食時に擦り合わせるという流れが定着してきている。


「紙の出荷も、もう始めることができそうなようだな」

「ん。きょう、みにいって、ひんしつだいじょぶなら、あしたからしゅっか」

「うむ。では明日出荷分を確認して、王宮側と渡りをつけよう」


 誕生会では本に加えて、少数ながらカータの販売を行うことになった。それらの商品の準備はヴァルターの方に集めることになっている。

 なお、その後のこれらの品の注文は、ヴィンクラー商会に移管される。その段取りも父の側で進めているところだ。

 来週の宴をもって王宮の方での慌ただしさは一段落するが、商会の運営はそれから本格化することになる。

 本の注文がどれほど舞い込むか予想もつかないが、とんでもない事態になる可能性も考えておかなければならない。まあこれは、捌けない注文分を「予約待ち」ということにする以外ないわけだが。

 王都に戻ってくるグイードたちを、職員として迎え入れる準備をする。

 それに合わせて、ウィラとイーアンを印刷部門に専念させる。

 製本部門に従事する職員を、もう少し増やしていきたい。

 ちなみに、ウィラたちが王宮で作成していた本の版木は、すべて商会が買い取る形になった。これについてはまるで詐偽のような安い値段になったが、誰一人その価値を理解しきれようもなく、どこからも異論は出ていない。

 すべて王太子、宰相と父の交渉に任せて、僕は口を出さないようにしていた次第だ。


――こんなもの、かな。


 諸々の動きも、来週後半には落ち着くことになりそうだ。

 これも新商会の発足から二週間程度という異例の早さだが、まあ納得できるところだろう。


 この日は、先に商会に出向いてから後宮に戻ることにした。

 製紙については、質、量ともに安定して出荷に不足はないと思われる。

 明日の空の日には、グイードたち四人が帰ってくる予定だ。翌日土の日に休養させて、問題ないようなら来週からこちらでの勤務を始めさせる。

 四人にはこちらの商会での勤務意思をまだ直接確認していないのだが、ウィラとイーアンの「絶対問題ない」という保証の元、迎え入れ準備を進めているところだ。

 明日全員の帰還を確認した後、ヴァルターとマーカスに孤児院に行ってもらい、本人たちと院長に説明して手続きを行うことにする。

 すべて予定通り進めることをマーカスと確認して、「よろしく」と小屋を後にする。


 すっかり段取りができてしまったせいで、翌日になると直接僕がすることはなくなっていた。

 執務室でメヒティルトに写本をさせながら読書をしていると、製紙指導旅団の帰着の報告が入ってくる。時間差はあったが二グループとも、子どもを孤児院に届けて王宮に戻ってきたそうだ。

 通商会議の派遣団も、午後には帰還する予定になっている。

 一通りすべて、予定通りだ。

 なおこの日、父に用事があって昼食時の訪問はない。


「じゃ、こじいんのけん、よろしく」

「はい、昼過ぎから行って参ります」


 後をヴァルターに託して、後宮に戻った。

 写本と見習い研修の進捗確認。

 テティスは、ザムの運動に出かける。

 こちらも何事もなし、と寛いでいると、訪問者があった。

 戸口で応対していたニコールが戻ってくる。


「アイスラー商会から、ルートルフ様宛に荷物が届いているとのことです」

「ふうん」


――何だろう。


 予定は、聞いていない。イルジーたちの新製品か何かだろうか。

 確認してもらわなければ中に入れられないということなので、一階裏の搬入口まで出かけることにする。

 カティンカとリーゼルは絵の練習のため部屋に残し、侍女三人と護衛一人を伴って廊下を歩き出した。

 僕は何となくぼんやり疲れた感覚なので、赤ん坊車に乗せられてメヒティルトが押している。

 昼下がり、気温が高いせいか、廊下に人の行き来はない。女官室の前を曲がり、階段に向かう間も、静かなものだ。

 厚い絨毯の上に、一行の足音と車の回転音が耳につくほどに。

 きしきしかたかたという擦過音が。次の瞬間。

 きき、といきなり乱れた。


「ぎあ――」


――え?


 振り返ると、メヒティルトが床に膝をついていた。

 狼狽の間もなく、続いて、


「ぐ――」

「が――」


 前を歩いていた侍女二人が、次々と崩れ落ちる。


――え、え?


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