第133話 赤ん坊、見習いを迎える

 ところで、今の話に出てきた「大学」というものは、教育機関ではない。どちらかというと研究施設と呼ばれるべきものだ。

 国に認められた「研究者」という身分の者が在籍して、さまざまな分野の研究を行っている。

 中には、ベルシュマン子爵領に住むベッセル先生のように、大学に籍を置いて在野で研究や副業を行っている者もかなりの数いるらしい。

 厳密には教育機関でないが、研究者としてはまず見習いとして先達について指導を受けるのが慣わしで、その身分の者が「学生」と呼ばれる習慣のようだ。

 王太子自身もまだこの学生の身分で、話の流れから「早く大学に戻って研究を続けたい」とぼやきに入っている。

 この数ヶ月は通商関係の行政とここの部署にかかりっきりで、研究の余裕などまったくなかったらしい。


「今日の会議の首尾次第で、少しは落ち着けるかもしれんが」

「だといいね」

「ルートルフももう少し身辺が落ち着いたら、王宮図書室に出入りできるようにとり計らおう」

「よろしく」


 昼前に、王太子は自室へ戻っていった。

 この日は父に用事があるということで昼の会食はなく、僕は早々に後宮へ引き上げることになった。

 運動や昼寝などの日課をこなして、日の傾き始めた午後の七刻頃、また執務室に出かける。

「少し前に、会議の報告が届きました」と、ヴァルターが出迎えてくれた。


 それによると。

 まだ初日ではあるが、通商会議の進展は予想以上の好結果だという。

 グートハイルが持ち込んだ荷車と紙は思った以上に熱い反響を呼び、すぐに各国から注文が殺到した。ダンスクの代表団さえ、進んで輸入の交渉を持ちかけてきたという。


「何処の国もこちらに間諜は入れて、紙の噂程度はすでに掴んでいたでしょうからね。実物を確かめて、すぐにその価値を認めたということのようです」

「ん」

「王太子殿下もこの報告に、ご満足の様子でした。事実上、ここしばらくの通商上の懸念は解消されたということになります」

「よかった」


 結果を詳しく分析しないうちは断言できないが、まずまず上首尾だったと思っていいようだ。

 王太子も胸を撫で下ろしているだろう。

 荷車と紙の開発の事実が、これで事実上国際的に認められたのだ。ここしばらく警戒を深めていた、紙の開発者を拉致されるといった危惧も、これで一応去ったと考えてよさそうだ。


「じゃあ。あとよろしく」

「畏まりました」


 ヴァルターに見送られて、商社の小屋へ移動する。

 小屋では、孤児たちが興に乗った様子で木片による繊維叩きに熱中していた。

 やや苦笑の顔で、マーカスが迎えてくれる。


「このような状況ですが、如何でしょうか」

「ん」


 繊維を解して水に漬けたものに、顔を近づけて観察する。

 指に摘まんで、感触を確かめる。


「もうすこし、たたいてほぐしたほうが、いいかも」

「左様でございますか」


 まだ水に漬けたばかりで、作業中と言っていい段階だ。

 台に取り出してさらに叩かせ、この工程の理想的な仕上りを徹底する。


「これであした、かみすき、さいしゅうだんかいにはいれる」

「はい、楽しみです」


 商会主を始め、作業員たち全員が表情を明るくしていた。

 とにかくも物作りが順調に進み、完成の目処が見えてくるというのは、従事する者にとってこの上ない喜びだ。

 今日の作業は、ここまで。

 明日は新しく最初から材木を煮る作業などを並行して進めながら、残りの繊維叩きをまず済ませる。その後昼前に僕が参加して、紙漉きの作業を全員で行う、ということにした。

 ここまでの工程を全員が経験すれば、その後は順調に製産を進められるはずだ。

 翌日への期待にかなり胸膨らませて、この日は解散となった。


 王宮へ戻ると、辺りが何処となく華やいだ空気になっていた。

 どうも、通商会議の成果が伝わってきているせいらしい。

 後宮の中でさえ、何処まで具体的な情報を得ているかは未知数だが、明るさは感じられてきているようだ。

 台車を押して湯を汲みに出ていたナディーネとカティンカが、笑顔で報告してきた。


「あちらで、第三妃殿下の侍女たちに話しかけられたんですよ」

「この台車、便利だね、大助かりだよって」

「へええ」


 それを聞くだけでも、後宮内の空気の角が取れてきた、という印象だ。

 王位継承においての僕の立ち位置が、周知された。

 通商会議で成果を得て、他国から狙われる理由も少しは薄れた。

 安心しきることはできないが、せめて後宮内では少し気を緩めることができるようになれば、と思う。


 翌朝は、カティンカとメヒティルトを連れて執務室に赴いた。

 迎える文官の斜め後ろに、侍女のお仕着せを着た少女が立っている。ヴァルターよりは明るい茶色の髪を後ろで一つに結わえた、ひょろりとした体形に見える。


「妹のリーゼルです」

「リーゼルでごさいます。よろ、よろしく、お願いいた、します」


 大きく一礼して、直り。大きめの緑の目が丸められて、僕に向けて固定されていた。

 乗っているザムに驚いたのかな、と思っていると、ヴァルターは妹に低い声をかけた。


「こちらがルートルフ様だ。詳しくはゆっくり説明するから、その態度はやめなさい。それから、ここで見聞きしたことは外で口外無用だからな、忘れないように」

「は、はい、兄さん」


 たしなめたのは、貴族子弟を直視して動かなくなっていた姿勢だろうが。

 ああ、と気がついた。

 リーゼルは、僕が赤ん坊だということを知らされていなかったのだ。

 秘匿事項だということを忠実に守って、ヴァルターは家でも「子爵次男のルートルフ様という方について執務をしている」ということだけを告げていたらしい。


――そりゃ、驚くだろうなあ。


 ナディーネとメヒティルトと同じ十一歳だという少女は、視線を落としたもののまだわけ分からない様子になっている。

 しかし、先輩の侍女二人を紹介されると、一瞬でその顔つきが変わった。


「あ、あ、こちらがカティンカ先生でいらっしゃいますか、わたし、尊敬しています! よろしくお願いしますう」

「え、え?」

「慌てるな」


 ほとんど跳び上がりそうになっている妹の脳天に、ヴァルターは拳を押し当てた。

 並べてみると、カティンカほどではないが同年齢のナディーネやメヒティルトより背が高い、という感じだ。

 その頭を叩くというより拳を当ててたしなめるという兄の動作は、何とも手馴れて見える。おそらく家でも、落ち着きがないなどでしょっちゅう注意を受けているのだろう。


「まず、これからの仕事手順を説明します。三人、こちらへ」


 まず、僕を自分の椅子に座らせる。

 それからヴァルターは、妹を含めた侍女三人を文官席の前に連れていった。

 これからのリーゼルの勤務についての説明だ。

 当初は午前中この執務室で絵の修行、午後は後宮へ連れていって侍女見習いの勉強、と計画していたが、ヴァルターと話し合って変更を加えた。

 いちばんの理由は、この部屋に王太子とゲーオルクが頻繁に出入りするということだ。

 まだ礼儀作法も覚束ないリーゼルには負担が大きすぎるし、絵の修行も落ち着いてできそうにない。

 もう一つ理由として、後宮での侍女見習いに必要な執務は、まず午前中に多い。最も優先して覚えるべきなのは、部屋の掃除と片づけなのだ。

 ということでこれから毎日、朝はカティンカが迎えに来てそのまますぐに後宮へ連れていくことにした。

 後宮の部屋でまず一通り侍女の仕事手順を学び、その後そちらでカティンカについて絵を学ぶという日課にする。

 そういう確認をして、カティンカとリーゼルは部屋を出ていく。


「しっかり先輩たちの言うことを聞いて、落ち着いて学ぶのだぞ」

「はい」


 いかにも気遣わしげな兄の声かけに、礼が返される。

 扉が閉じると、ふう、と珍しくヴァルターの長い溜息が聞こえた。


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