第41話 赤ん坊、女官長に会う 1

「本当に今まで、申し訳ございませんでした。少し考えたら、ご入浴などたいへんだと、分かるのに」

「んん」


 知らなかったのだから仕方ない、と言いたいのは山々だが、おそらくそれでは済まない。

 侍女のあり方として、主の世話をするに当たって何が必要かどう行動すべきか、常に想像を働かせなければならない、というのは当然だ。

 少し前までのナディーネは、自分が貧乏くじを引かされたという失望で、そういうすべてを放棄していたのだろう。

 さらにまあ、僕の方にも責任の一端はある。

 本人の言を信じるなら、生まれてこの方、僕と会うまで赤ん坊を見たことさえなかったという。当然、本やその他から知識を得ることさえできるはずもない。

『記憶』の世界のような、容易に様々な情報を取り入れることができる境遇ではない。ましてや、まだ十一歳の少女。貴族でも学院入学前、職人志望者でも見習いを始められるかどうかという年齢なのだ。

 赤ん坊に対する経験も知識もなく世話を押しつけられたのだとしたら、残された手段は本人の反応を見ながらの手探りしかないはずだ。初出産の母親も経験の少ない子守りも、指導者がいなければそうして、相手の機嫌や泣きぐずりようをみて一つずつ対応を身につけていくものだろう。

 ナディーネの場合は僕がことさらぐずりを見せるでもなく、何とか一人でいろいろなことをやってみせてしまったものだから、それ以上別の対応を想像することさえなかったのだと思われる。

 その辺の気持ちは分かるが、やはり世話役としての不備は否定できない。今はそれを省みて、今後を改めていってもらわなければならないところだ。


 僕を湯に漬け、肌を擦っていく。

 本当に赤ん坊の扱いは初めてのようで、「これでよろしいですか?」「痛くないですか?」とおっかなびっくりいちいち確認し続けで、こちらが疲れてしまうほどだった。

 まあこれも、初回だけのことと諦めるしかない。

 何とかほかほか温まって、浴室を出る。

 この間に食事を済ませたテティスが残り湯で汗を流し、その後ナディーネがそれに続く、ということになるようだ。


 この辺は、新しい体制での生活に合わせて、相談しながら方法を探っていくことになるだろう。といっても、あまり僕が口を出す領域ではない。

 あまり長く僕が居間に留まっていると彼女たちもそういう行動をとりにくいだろうと思われるので、やはり大人しく早々にベッドに入れられることにした。

 早寝の分、また暗いうちに目覚めることになるかもしれない。この辺りの生活習慣もどうにかしなければ、そのためにはこの過労状態から改善を――。

 などと思い漂わせるうち、意識は沈んでいた。


 朝一の鐘に合わせて、目が覚めた。

 早い目覚めを心配していたのだけど、何ということもなくこの時刻まで眠り続けたようだ。自分で思う以上に、疲労は深かったのかもしれない。

 もう向こうでは、護衛と侍女の動き出す気配がしている。

 さすがにこちらも寝足りているので起き出したいところだが、もう少しだとじっと我慢する。


 朝食をとりながら、この日の予定を考える。

 新製品開発のために、まだいくつか考えておかなければならない――と思っていると。


「ルートルフ様は、今日は十分休養をとってくださいよ」

「そうです。ヴァルターさんにもくれぐれもと、釘を刺されています。仕事漬けにしないようにって」

「……はい」


 女性二人に、機先を制されてしまった。

 聞くところでは、やはり昨夜、自分で思う以上に僕の顔色は悪かったらしい。

 それにしても。


――もしかしてこれから、僕の立場って弱くなっていくんじゃ?


 秘かに危ぶみながら、ここは大人しくしておく。

 一方で二人にこの日したいことを訊くと、

 ナディーネは「字の練習」

 テティスは「素振り」

 ということだ。

「仕事漬け禁止」などと、人のことを言えたものではない。


「ああ、それにしても」と、テティスは上の方を見る目で、言い加えた。「ここでの警護任務に当たって、女官たちや他の護衛たちと一度は顔合わせをしておくべきだと思うのですが、何処へ話をすべきなのでしょうね」

「ん――やっぱり、にょかんちょう?」

「はい。でも、ふつう新しい護衛の方が入ったときは、仕事を始める前に女官長からみんなに紹介されるんですけど。テティスさんはふつうと違う入り方だから……」

「ん……」

「まあ、後であちらの誰かに尋ねてみましょう」


 この辺、少し事情はややこしいらしい。

 侍女や女官たちは当然、女官長の下に配属される。

 一方で護衛職は、王宮庁で採用されてこちらに預けられるというような扱いらしいのだ。

 つまり、直接女官長の部下ではないが、習慣上後宮内ではその指示に従うことになる。

 そんな説明を聞いて僕が考えていると、「ルートルフ様のお手を煩わせることではないと思います」と、またテティスに釘を刺された。


 結果、食後にはそのままテーブルでぼうっとしているしかなかった。

 二人も食事を終えて。

 ナディーネは自分のテーブルで、文字手本を眺めている。

 テティスは昨夜寝袋で休んだらしい部屋の隅に座り、剣の手入れをしている。

 僕も、読書くらいはいいだろう、と思ったが、執務室から本を運んでくるのを忘れたことに気がついた。あるのは、読み終わった薄い図鑑だけだ。


――情けね……。


 一人いじけていると、ドアにノックの音がした。

 テティスが応対すると、昨夜ここにも来た若い侍女らしい。

 ナディーネに用ということで呼んで話をしている。

 去った後、戻ってきたナディーネは困惑の顔になっていた。


「女官長から、呼び出しだそうです」

「ナディーネに? 何かあったのか」

「わたしの執務室勤務について、言いたいことがある、ということのようなのですが」

「その件は、王宮庁を通して認可を得ているはずでは?」

「ん」

「そうなんですが……。一度そのような決定が出たことでも、お妃様の意向や女官長の判断とかで、話が変わったということを聞いたことがあります」

「何とも、妙な。しかし、考えられないことでもない、ですか」

「だね」

「とにかく、女官室へ行って参ります」

「――まって」


 歩き出しかけたナディーネを、後ろから呼び止める。


「いっしょに、いく」

「ルートルフ様が?」

「ん」


 僕の存在を女官たちの中に印象づけるのは、あまり得策とも思わない。

 しかし現状、ここにいる三人の後宮での立場の不安定さを思うと、何処かではっきりさせておく必要はあると思うのだ。

 少なくともまず、まだ顔を見たことのない女官長が、この部屋のことをどう認識しているかについては、確認しておかなければならない。


 赤ん坊車を女官室に乗り入れるのは妙だというナディーネの意見で、三人並んで歩いて部屋を出る。

 廊下が突き当たる箇所まで僕の歩行が可能なのは、以前挑んで確認済みだ。

 三つ並んだうちの右のドアを、ナディーネはノックする。


「ナディーネです」

「入りなさい」


 やや低音の女の声が返ってきた。

 戸を開き、礼をしてナディーネは入室する。

 並んだ僕とテティスは、真っ直ぐ前を向いたまま。

 正面奥に大きな机があり、そこに女官長と覚しき中年女性が座っている。

 その右手、壁側に机が四つ並び、最奥にヨハンナが掛けている。

 在室は、この二人だけだ。

 座ったまま、二人はわずかに目を瞠っている。

 当然、ナディーネに同行者がいるとは思っていなかったためだろう。

 手前の応接用椅子とテーブルの横まで、ナディーネと僕たちは足を進める。

 少し考えた様子ながら、表情を変えず女官長は口を開いた。


「それが、その赤ん坊様ですか。ナディーネ一人を呼んだつもりだったのですけどね。まあ、いいです。あちらの執務棟ですか、貴方を行かせると裏の方から要請があったのですがね。やはり考えものだと思うのですよ」

「いけない……のですか」

「そんな前例はありませんしね。ここを出ての勤務は風紀上問題がある、という声があるのですよ。やんごとない声を、無視することはできませんからね」

「そう、なのですか」

「いくら低い身分の部屋でも、いい加減にすることはできないのです」

「はあ……」


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