第42話 赤ん坊、女官長に会う 2
何処か隣で、ぴしり、と何かが割れる音が聞こえた、気がした。あくまで、気がした、だけだけど。
代わりに一往復呼吸をして、テティスが口を開く。
「一つ、訊ねていいだろうか」
「何でしょう」
「ここにルートルフ様がいらしているわけだが、立たせたまま、そこもとは挨拶もなく着席したまま、というのはどういう次第だろうか」
「いえ、別にお呼びしたわけでもありませんので」
「ほう。呼ばなければお相手はしない、礼はとらないということか」
「それは……」
「いい」
テティスの手を握り、話を止める。
それからナディーネの脚にすがると、察して抱き上げてくれた。
突然の動きに、女官長とヨハンナは目を丸くしている。
目の高さを近くして、侍女の腕から、相手に真っ直ぐ話しかける。
「にょかんには、あいさつもしょうかいもうけていないので、はじめてあうとおもうが、にょかんちょうでまちがいないだろうか」
「あ、はい……」
「るーとるふ・べるしゅまん、だ」
「は……」
「なでぃねのけんは、おうきゅうちょうをとおしてにんかをえた、とにんしきしていたのだが。つまりそれでは、にんかがむこう、ということだろうか」
「あ、え……」
「きいているとおもうが、ぼくは、へいかからおうめいをうけて、おうたいしでんかのちょくぞくで、しつむをしている。ざんねんながらあかんぼうのみで、ふじゆうがあるので、なでぃねのつきそいをねがいでている。さきのしんせいがむこうなら、べつのほうほうをとる、ひつようがあるのだろうか」
「あ、あ、いえ……」
「いまのはなし、やんごとなきかたと、はなすひつようがあるのなら――」
「あ、いえ、いえ、お話しいただく必要は、ございません」
ようやく少し我に返ったというように、慌てて女官長は起立した。
その頭を、深々と下げる。
「その、失礼いたしました。まずはそちら、お座りいただいて――」
「ながい、するつもり、ない」
「あ、その――」
「いまのけん、てつづきのほうほうを、おしえてもらえるか」
「いえ、いえ、ナディーネの件は、こちらの勘違いでございます。手続きはされていますので、今のままでけっこうでございます」
「そう」
「ルートルフ様には、わざわざこのようなところへお運びいただいて、申し訳もございません」
「ごかい、とけたなら、いい」
「痛み入ります」
「では、なでぃねは、そのように」
「はい」
「あと、もうひとつ」
「はい、何でございましょう」
「この、となり、ごえいの、ててす」
「はい」
「ぼくはしらなかったけど、こうきゅうで、ごえいいない、おかしい、いわれて、でんかがおうきゅうちょうにはかり、はいぞくされた」
「あ……はい……それは……」
「それはいい。けど、ふつうとちがうはいぞく、なので、きんむ、ふつごうあると、こまる。こうきゅうないに、しゅうちてってい、ねがえるか」
「は、はい、承知いたしました。明日の朝にでも、皆に紹介させていただきます」
「たのむ」
「はい」
「ごかいとけて、あんしん」
「はい」
にっと笑うと、相手も安堵したように、顔の強ばりをわずかながら緩めた。
女官長に合わせて直立していたヨハンナも、秘かに息をついている。
「あんしん、ついで。もうひとつ、あまえていいか」
「は――何でしょうか」
「じじょひとり、ふじゆう。なでぃねが、やすむことも、できない」
「あ、はい」
「もうひとり、つけてもらえないだろうか」
「は、はい、もちろん、そのようにさせていただきます。ヨハンナ!」
「はい、すぐに選出を。…………ですが……」
「……ああ」
もちろん、通常の住人には侍女が五人以上ついているというのだから、不可と言えるはずもない。
加えて、ナディーネが僕につけられた経緯を想像すると、次に来る問題も予想がつく。
すでに妃たちや王子王女についている侍女は、本人たちが手放したがらない。まだ部屋付きではない者は、能力経験不足、ということなのだろう。
前回は仕方なく王女の部屋から一人出してもらうと調整して、しぶしぶ最若手のナディーネが出されたということなのではないか。
次に女官長の口から出たのは、予想通りの言葉だった。
「その……お恥ずかしい話で申し上げにくいのですが、今、部屋付きができるだけの者が不足しておりまして……」
「へやかんりの、のうりょく、ひつようない」
「はい?」
「さいていげん、そうじとかだけでもできれば」
「はい、そういうことでしたら……」
「かわりに、えと、じが、うまいものが、いい」
「は……絵と字、でございますか?」
「ん」
「絵……あ!」
「……おります」
隣を見て、女官長はヨハンナと顔を見合わせる。
こちら、ナディーネも、ぽかんと口を開けたまま。
「その、絵は得意だという子はおります。字は、その……」
「おしえるから、いい」
「そうですか。そういうことでしたら、すぐに呼ぶことはできます」
「なでぃねは、そのこと、きょうりょくして、できる?」
「あ、はい。大丈夫です」
「なら、そのこで、おねがい」
「かしこまりました。ヨハンナ――」
「はい、ただ今、連れて参ります」
まるで、こちらの気が変わってはたいへん、とでも言いたげな勢いで、ヨハンナは足早に出ていった。
それを見送り、何度か顔の明暗をくり返すように口を閉じ開きして、女官長はようやく声を出した。
「その、ですが――ルートルフ様」
「ん?」
「その子、カティンカといいますが――絵が得意というより、絵しか取り柄がないという――」
「ん」
「本当に、ご満足いただけるか――」
「ひとに、さからう?」
「それだけは、まずございません」
「なら、いい」
「そうでございますか」
「さぼる、さからう、なければいい。ほかのりゆうで、やめた、いわない。やくそく」
「それでしたら、喜んでお預けいたします」
「ん」
つまり、上司の女官たちが持て余している存在なので、連れていってもらうのは大歓迎。
ただ、後になって文句を言われないかだけが心配、ということのようだ。
そう思って、ここは安心させておく。
「それから、そのこも、しつむしつにつれていく。てつづき、いるかな」
「いえ、そういうことでしたら、今承りましたので、それで結構です」
「そ」
話をしているうち、ヨハンナが戻ってきた。
先日会った、大柄な侍女、カティンカが後ろについてくる。
そこそこ大きな鞄を抱えているところを見ると、部屋移動の準備は万全らしい。
この短時間でそれができてしまうのにも、悲しいものを覚えないでもないけど。
「こちら、その、カティンカでございます」
「ん。かてんか」
「は、はい!」
ぽかんと目と口を開いて、カティンカの声は裏返っていた。
当然、先日も一度見た赤ん坊が、いきなり話しかけてきたせいだろう。
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