第40話 赤ん坊、生活改善をする
「お疲れ様でした。こう申し上げますのも恐縮なのですが、明日はゆっくりお休みくださいますよう」
ヴァルターの挨拶に送られて、執務室を出る。
護衛がついたので、さすがに文官の送りは必要なくなった。
テティスに護られ、ナディーネに車を押されて、後宮の扉をくぐる。
前日ほどではないにしても、やはりかなりの程度、疲労で瞼が重くなっている。
これを認めるのは何か恥ずかしい気もするけど、何とか支えている気力の元は、昼の父の抱擁の余韻、という気もする。
それでもやはり、初めてこの部屋に入るテティスの落ち着きを見届けないことには、主の責任が果たせないところだ。
部屋まで案内して、ナディアはぱたぱたと一度出ていった。
いつもの通り夕食を運んできて、僕をテーブルに着ける。
やっぱりかなりの眠気と戦いながら食事を続ける間、テティスは部屋中を見て回っているようだ。
当然ながら護衛としては、部屋のすべてを把握しておく必要があるのだろう。
寝室の天蓋つきベッドを見て目を丸くしている様子が、どこか微笑ましい。
続いた二部屋を点検して、次は使用人部屋などの方に向かっている。そちらへ、ナディーネが声をかける。
「その左のドアが、使用人の部屋です。テティスさんには、簡易ベッドか二段ベッドのどちらを――」
「いや、護衛がそんな奥に引きこもるわけにはいかない」
左側の部屋を覗いて、すぐ出てきながらテティスは応えた。
「出入口から主の寝所までの間に、護衛の目がないなどあり得ない。わたしは居間のその辺に寝袋で休むことにしよう」
「寝袋では、十分に休めないのではないですか?」
「慣れているから、大丈夫だ」
言いながら、右手の方へ向かう。
風呂とトイレのドアだ。
まず風呂場を覗き、首を傾げながら戻ってくる。
「赤子用の盥は、何処にある?」
「はい、何でしょう」
「盥がなければ、ルートルフ様は入浴できないのではないか」
「はい?」
「ないのか? 今まで、どうしていたのだ? ナデイーネはどうやってお世話していた」
「いえ、あの――」
「ん?」
「……ルートルフ様……お一人で……」
「何だと」
「え」
「ルートルフ様は確かに、同じ年頃の赤子よりはできることが多いが、入浴とトイレは付き添いがなければ信用おけないはずだ。けっこう自分でできると言い張るが、それで何度失敗したことか」
――えーと、テティスさん、もうちょっと言い方というものが……。
せっかく自分の中では、黒歴史は忘れようと努めていたのに。
「この大きな浴槽で、一人で浸かれるはずがない。一人で身体を洗うと主張しても、背中に手が届くはずがない。耳の後ろをちゃんと洗わずに、いつも子守りにやり直しをされ――」
「わーわーわーー」
「そのように、誤魔化そうとなさる。ルートルフ様の『自分でできる』は決して信用してはいけない」
「そうなのですか……」
――テティスさん、どうかお手柔らかに……。
もう一つのドアを開けて覗き、ほとほと呆れたという顔が戻ってきた。
「やはり。トイレも赤子仕様になっていないではないか」
「え、え?」
「赤子用の補助器具をつけていないと、へたすると落ちてしまう」
「ええ?」
「ルートルフ様……」
溜息混じりに。
護衛、というよりも、親戚のお姉さんのようなきつい目で睨まれて。
僕はそっと、斜め上に視線を逃がすしかできなかった。
「とにかく、ルートルフ様の『一人でできる』は決して信用してはいけない」
「は、はい」
「そのような設備が後宮にないなど、あり得ないと思うのだが。これまで何人も赤子の養育をしてきているのだろう」
「は、はい――問い合わせてみます。お風呂の盥、トイレの補助器具、ですね。もしかすると他にも、抜けているものがあるかもしれませんね。古くからの侍女に訊いてみます。少々お待ちください」
慌てて、急ぎ足で出ていく。それでも一応見た目、足音を抑えた程度の性急さだ。
これがベティーナだったら、たちまちイズベルガに雷を落とされそうなばたばたの足どりになるんだろうなあ、と妙に感傷的に思い馳せてしまう。
何はともあれ、ナディーネに関しては後宮の躾が行き届いているようだ。
――などと現実逃避していると、戻ってきたテティスに改めてじろりと睨まれた。
「ルートルフ様、いったいこの二週間近く、どうやって――あ――」
こちらを責め立てかけた口調が、途中で変わった。
「いえ、申し訳ありません、短慮でした。正常に後宮の者が配慮していれば、このような事態にはなりませんね」
「まあ――」
「もしかしなくても、ルートルフ様、ここでお一人で闘われていたということなのでしょうか」
「や。そんな、おおげさじゃない。つかれてさっさとねていた、だけ」
「何とも、お
「なでぃね、せめないで。たぶん、しらなかっただけ」
「なるほど。分かりました」
溜息殺せないまま、頷いている。
今日からこんな強力な援軍が加わると知っていれば、もう少し昨日のうちにナディーネと打ち合わせをして、少しでも改善(誤魔化し、取り繕い)をしていたのに、と思ってしまう。
かなりの時間を待たされて、戻ってくる物音があった。
先頭に、先日も見かけたヨハンナという女官、さらにもう少し若い女性、ナディーネと続いて、何やら道具を抱えて入ってくる。
通りざま、ヨハンナから、じろりと睨む視線が流れた。
僕に、というより傍らのテティスに、だった気がする。
風呂場とトイレの方へ入っていって、まあおそらく、さっき話に出ていた不足品を補充しているようだ。
間もなく設置を終了したようで、またテティスの方を睨みながら、二人は出ていった。
残ったナディーネが、もう一度頭を下げてきた。
「本当に、申し訳ありません」
「仕方ない。察するに、ナディーネは赤子の世話をした経験がこれまでなかったのではないか」
「え……あ、はい。その、恥ずかしながら……ルートルフ様にお会いするまで、赤ちゃんを実際に見ることもありませんでした。故郷の村が、年寄りばかりだったので」
「そうか。今さっき指摘したこと、経験のない者に気がつくものではない。わたしだって、ベルシュマン男爵家に勤めるまで、知る由もなかった」
「そう――なのですか」
「責任を問われるべきは、当然そういうことを知っていて無視していた者たち、だろうな。赤子を見たこともなく、知識もない若年の者に、何の指示もなく押しつけるなど」
「――あ……」
それから急いで、ナディーネは風呂の用意を始めた。
これまでは僕の帰りを見越してあらかじめ済ましていた作業なのだろうところ、今日は慌ただしい動きにならざるを得ない。
初めて見たわけだが、要するにあの廊下突き当たりの部屋まで、湯を汲みに行かなければならないようなのだ。
今日はこういう状況なので、新しく設置された盥二つを満たす分の給湯に留めることにしたようだ。
それでも桶二つを提げたナディーネは、給湯所まで二往復しなければならなかった。
いつもあの浴槽をいっぱいにするのに、何往復しているのだろう。いちばん遠い部屋を割り振られた皺寄せが、こんなところにも出ていたらしい。
その重労働を終えて、ナディーネは僕を浴室に抱き運んだ。
「お待たせしました。お湯をお使いいただきます」
丁寧に服を脱がせながら、何度も頭を下げてくる。
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