第80話 赤ん坊、命を脅かされる

「ふが、が……」


――苦し……息できない、死んじゃうから。


 幸い、白い手はすぐに離れてくれた。

 片手で鼻と口一緒に摘まむなど、なんて器用というか。


 それにしても、事態はやはり全面的に僕のせいのようだ。

 寝呆けて、夢に遊ぶように一人廊下を歩いてきた、ということらしい。

 テティスにも護衛として外からの侵入に備える心構えは常にあっただろうが、内側から静かに鍵を開ける物音やカーペットの上の赤ん坊の足音では、目を覚ませなかったというわけだろう。

 まあ当然、ザムは気がついた。おそらくのところ、ベッドを降りる際に踏みつけただろうし。

 それでもテティスの言う通り、僕の行動を不思議に思っただろうけど、危険はないと判断してそっと後をついてきた、という次第のようだ。

 こちらの護衛も、扉への衝突音に気づいて誰何に出てきたが、足元の小さな赤ん坊をすぐに見つけられず、すり抜けられた、ということになる。


――お気の毒、というか、申し訳ない。


 しかしそれにしても、ようやく一つ、大事な情報を得た。

 この頭の上の女性、第二王妃だったらしい。

 国王の、二番目の奥方(当たり前)。

 王太子の母親。

 エルツベルガー侯爵の長女。

 テオドール氏の妹。

 我が母親の姉。

 つまりは、僕から見ると伯母。

 既知の人物のいろいろな方面から、繋がりのある人だ。

 一方で、妃個人については、ほとんど僕に知識がない。

 この人の妹からも、父親からも、兄からも、息子からも、当然夫からも、何一つ聞いたことがない。

 せいぜいがヴァルターから得た情報、「正妃に替わって目立って出てくることがない。後宮内の采配も関心ないようで、悠々自適の閑かな生活を送っているらしい」というものだけだ。

 僕やベルシュマン子爵家に対してどんな感情を持っているのかも、一切知らない。

 うちの母に似て、肉親に親愛の情を持つものなのか。

 自分の父親に倣って、妹を奪った男の家族に悪感情を抱いてるのか。


――さっきからの僕への仕打ちを見ると……。


 とても、前者と楽観できそうにはない。

 しかしもし後者で、物事を容赦なく解釈する性格だとすると、とても笑っているわけにはいかなくなる。

 何しろ――。


 考えていると。

「分かっているのでしょうね」と、平伏するテティスに向けて、年輩侍女の声がかけられた。


「妃殿下のお部屋へ無断侵入、さらにはこともあろうに、男子がお許しも得ず殿下のお身体に触れるなど、極刑に値する所業ですよ」

「ひ――」


 侍女三人が、息を呑んでいた。

 年輩さんの言い分、当然なのだ。

 相手は妃、ここは後宮なのだから。

 それくらいの厳格さがなければ、運営できているはずがない。

 この部屋に入って僕が妃に近づく動きを見せた途端、即座に斬り捨てられていても、何も文句を言えないはずだ。

 おそらく昨夜は、護衛も侍女も事態のあまりの意外さに呆気にとられているうち、あっさり僕が寝落ちしてしまったので、最悪を免れていただけだろう。

 その点理解していたらしく、肩を震わせてテティスは声を絞り出した。


「そこはどうか、ご容赦を――畏れながら、寝呆けた赤ん坊のなさったこと――」

「都合のいいときだけ、赤子扱いするらしいの」


 お代わりの茶を口に運びながら、妃が鼻を鳴らした。


「そこらの成人も敵わぬ見識を有するとして、持ち上げられている存在というではないか。無責任な赤子、などとという言い分は通らぬ」

「そこは、畏れながら――お身体は幼い赤ん坊でございますれば、疲れて寝呆けるなどは、いかんともしがたく――」

「言い訳にならぬ、と申すに」


 ティーカップを置き戻し、冷たい横目が僕の上に落ちてきた。

 また片手が伸びて、頬をまさぐり、つねる。

 そのままその手で、首元を探る。


「分かっておろうな。其方の主は、わらわの手の内じゃ。生かすも殺すも、意のまま。今すぐ首を捻るのさえ、たやすいこと」

「く――ご容赦を」


 が、と打擲音が響いたのは、テティスが膝を立てかけた動きらしい。

 その左手が、脇に置いた剣の上に伸びかけて。

 入口側に控える護衛たちに、緊張が走る。


「まて、ててす!」

「ほお、妾に剣を向ける気かえ」

「あ、いえ――」

「妃に刃向かうも、ためらわぬと申すか」

「……それがしは、ルートルフ様の護衛でありますれば……」

「ほう……」


 白い手がまた頬に戻り、くいとつねり上げてきた。

 さっきまでより、少し痛い。


「生意気な赤子にはもったいない、忠義の徒らしいの」

「ん」

「案ずるな。こな面白げな赤子、すぐには殺さぬ」


 くく、と喉を鳴らし、正面に蹲る護衛に目を送る。

 それからこちらに含み笑いの顔を戻し、やおらまた鼻を摘まみ上げた。


「ただまずは、また言いつけに背いて声を出したの。これはその罰じゃ」

「むぐ……」


 鼻を捻り。唇を摘まみ。頬をつねり。

 一通りをこなして満足したらしく、その手は離れる。


「なかなかに面白げなのでな。これは数日、妾の玩具おもちゃとする。処遇を決めるのは、それからじゃな」


――玩具、かい……。


「配下の者もその間、こちらの命に従え。よいな」

「は」

「はい」


 テティスに続いて、侍女たちも深く頭を下げる。


「タベア、任せます」

「かしこまりました」


 妃の傍に控える年輩の侍女の名が、タベアらしい。

 恭しく頭を下げ、それから主に声を返した。


「ただ、妃殿下」

「何じゃ」

「その赤子様、王太子殿下の下でお勤めをなさっているとか。殿下のお仕事に支障があっては」

「ふん、赤子の勤め、のう」


 軽く肩をすくめ、妃は正面に顔を戻した。

 首を垂れる護衛を、わずかにめつけ。


「此奴の勤め、今日は休みであろうの」

「は。さようにございます」

「明日は?」

「土の日以外は、朝の六刻からお勤めです」

「赤子のくせに、生意気よの。してみると、明日の六刻からは殿下がお困りになるというわけよな」


 問いかけは、隣のタベアに向けられたようだ。

 ベテラン侍女は静かに頷いている。


「殿下を困らせるのは、本意ではない。早めにお知らせしておくべきじゃな」

「さように存じます」

「今から、お知らせすることにしよう。タベア」

「ただ今」


 一礼して、侍女は足早に奥に下がっていく。

 皆まで言わずとも、主の望むところを正しく察したらしい。

 戻ってきたその手には、筆記板とペン、インクが捧げられていた。

 受けとって、妃は迷いなくペンを走らせる。


「これを――そこな、図体の大きな娘」

「はい?」


 いきなり呼びかけられたカティンカの、声が裏返っている。

 板を渡されて、タベアがそちらへ歩み寄った。


「これを、そちらの出口外の控え番に渡してきなさい。王太子殿下に届けるようにと」

「は、はい、かしこまりました」


 こちらの妃居室奥側にも執務棟への出入口があり、王宮庁の職員が常駐している、ということらしい。

 説明されて、カティンカはよたよたと部屋を出ていった。

 歩調が怪しげなのは、足が痺れたせいかもしれない。


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