第81話 赤ん坊、心に誓う

 カティンカが戻ってくると、タベアは改めて指示を始めた。

 ちょうど通常毎朝妃が活動を始める頃合いらしく、奥から侍女たちが姿を現してきている。


「侍女はいつものように、ルートルフ様の朝の支度をしなさい。ああ、着替えはまだいいでしょう。朝食の用意からですね。テティスは非常事態がない限り、ルートルフ様の傍に寄ることを禁じます。出入口側の護衛に加わりなさい。オオカミの引き綱は放さないように」

「はい」


 不服と服従の半ばした表情で、テティスは立ち上がっていた。

 言われた通りザムの首輪につけた紐を引いて、立ち番の護衛に並ぶ。

 すでに立っていた護衛の一人が、苦笑めいた顔でテティスの肩を叩くのが見えた。そう言えば前に、第二妃の護衛に知り合いがいると言っていたな、と思い出す。

 侍女たちは朝食の運搬に出ていったようだ。


 しばらく侍女たちの出入りと、奥の方で動く気配が続き。

 やがて「お食事の支度ができました」とタベアが妃に声をかけた。

 妃はゆったりと立ち上がり、僕はタベアに抱かれて運ばれる。

 ここでは、隣にもう一部屋、食堂があったらしい。五六人は集えそうな食卓に、妃の朝食が並べられていた。

 その直角向きの隣に僕の離乳食の深皿が置かれ、椅子の後ろにメヒティルトが待機している。

 妃が席に着き、僕も高い椅子に乗せられる。タベアが首元を緩めて、おくるみから両手だけ出せるようにしてくれた。


「いただきましょう」


 何事もないように妃が一言口にし、スプーンを手に取った。

 僕も匙を取り上げて、野菜の溶け込んだ麦粥を口に運ぶ。

 いつもとほぼ変わらない朝食だ。

 メヒティルトに横から見守られて黙って食べていると、時おり隣から冷たい視線が注がれるのが感じられた。

 ちゃんと一人で食べられるんだよ、と誇示するように、僕は慎重に匙を動かした。

 一皿を完食し、メヒティルトがそれを片づける。

 間もなく妃も食事を終え、立っていく。

 僕はまたタベアに抱き上げられて、食堂を出た。

 扉外に立っていたナディーネに、僕は手渡された。隣にカティンカも並んでいる。


「いつものように、朝のお世話をなさい」

「はい」


 タベアに促されて、ナディーネとカティンカは僕を洗面所に運ぶ。

 歯磨き、洗顔、トイレ、といった日課をこなすのだが、ベテラン侍女に横から監視される格好になって、二人とも手つきがぎこちなくなっていた。


「歯磨きは、それで終わりですか?」

「あ、え、え?」

「歯の裏までちゃんと磨かれたか、しっかり点検しなければなりません」

「は、はい」

「それに、歯の生えかけの赤子は、いつまた新しい歯が出てきているか分からないのです。毎日欠かさず確かめなければなりません」

「……はい」


 しどろもどろになりながら、ナディーネは指示に従っている。

 横に控えているだけのカティンカさえ、すでに顔面蒼白だ。

 そういった指摘が細部まで続き、一通り終えて居間に戻る頃には、二人とも息絶え絶えの様子になっていた。

 一方のタベアは平然としたまま、僕の両手をおくるみの中に戻し、首元を調えて元のソファに寝かせた。

 僕の脳天はまた、妃の腰脇すれすれになる。

 その妃はこちらを一瞥することもなく、テーブルに木の本を開いて読んでいるようだ。


「その……むぐ――」


 試しに声を出してみると、すかさず伸びてきた手に頬をつねられた。

 その視線は、本に注がれたままだ。


「気味悪い口を聞くと、濡れ布を顔に被せますよ」

「ん……」


――それって、貧窮農村で幼子を間引くときに用いる方法じゃ?


 何でそんな知識、妃ともあろう人が持っているのだ?

 いや、赤ん坊がそんなこと知っているというのも、十分不気味だけど。

 とにかくも、逆らうのはやめよう、と心に誓う。


「あなたたちは交代で、自分の部屋で食事をとりなさい」


 タベアに言われて、カティンカとメヒティルトが出ていったようだ。

 一人ナディーネが残って、タベアの隣に控えている。

 しばらくして二人が戻ってくると、テティスとナディーネが食事に出ていったようだ。

 当然その間、この部屋の侍女や護衛も交代で食事をしているらしい。

 ただ、そこそこ人数がいるはずの侍女たちはあまり姿を見せないな、と思う。

 すると、


「あなたたちはここに控えていても仕方ないでしょう。奥で、他の者たちの作業を手伝いなさい」


 と、タベアはカティンカとメヒティルトを下がらせていた。

 つまり侍女たちは、奥で別の仕事をしているらしい。

 その後戻ってきたナディーネも、同じ指示を受けていた。

 原則、妃の傍に控えるのはタベア一人としているらしい。

 そんな動きの間も、僕には何もすることがない。

 ほとんど動くこともままならず、もじもじしているだけ。

 あまり落ち着いて考えることもなく、時を待たず眠りに落ちていきそうな予感だ。

 そうしていると、ぼんやりとタベアのかける声が聞こえてきた。


「妃殿下も、少しお休みになってはいかがですか」

「うーん……ここだけ読んだら」

「昨夜は結局、お休みになっていないのですから」

「ねえーー。新しい本をキリのいいとこまで読もうと夜更かししてたら、こんな闖入者が来るんだから。後からどんな騒ぎが起きるやら、楽しみで寝るどころじゃなくなっちゃったじゃない」

「それももう一段落したのですから、少しでもお休みください」

「分かりましたあーー」


 くすくす笑いながら、妃は本を閉じている。

 このベテラン侍女にはあまり逆らわない、それどころか二人だけだと何処か甘えたような口調になるものらしい。

 また、昨夜あんな遅くにここの部屋には灯りが点いて人が起きていた、その理由がようやく分かった。

 どうもこの妃、無類の読書好きらしい。

 そもそもこの国で、徹夜までして読みたくなるほどの本にお目にかかったことはない。

 どんな内容のものだろう、と覗いてみたくなりながら、当然頬をつねられる末路を確信して、今は諦めることにする。


 やや未練がましい様子ながら、妃が立ち上がる。

 次いで、僕もタベアに抱き上げられた。


「其方も、共に寝るのだぞ」

「え?」

「妾が起きているときに眠られると、玩具にする楽しみが減じてしまう」

「う」


 辟易の気分で、辺りを見回す。

 室内に見える人間はあとは護衛ばかりで、その中にテティスの顔が見えた。

 とたん、かけておく指示を思い出す。


「あ、ててす――くみゆ……」


 間髪を入れず、鼻を摘ままれた。


「護衛に、指令か?」

「……ん」


 冷ややかな目が、僕の視線の先を辿ったようだ。


「オオカミか」

「ん」


 小さく鼻を鳴らし、妃は侍女を見た。

 即座に頷いて、タベアは護衛に声をかける。


「テティス、そのオオカミはいつも、運動に連れ出すのですか」

「ああ、はい。できましたら、日に一度は」

「でしたら、この時間に行ってきなさい。この部屋で暴れられたり粗相されたりするのは、迷惑です」

「承知しました。あとをお願いいたします」


 女護衛が出ていき、こちらの主従は小さく頷き合っている。

 何とも、察しのいい人たちだ。


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