第82話 赤ん坊、戒められる
うちの部屋のものよりさらに大きく豪華な外観の天蓋つきベッドが、寝室に鎮座していた。
広いシーツの上、奥側に僕はおくるみのまま置かれる。
着替えの世話を受けながら、妃は侍女に指示を続けた。
「四刻ほどで起こして頂戴。それから、王太子殿下から面会依頼が来るかもしれないので、そのときはすぐ起こして」
「かしこまりました」
さっき王太子に連絡を送った、その反応の予想だろう。
筆記板に書いた文章量からして、ルートルフを数日預かる、といった程度の記述しかしていないと思われる。休日の王太子にしても、できるだけ早く事情を確かめようという行動に出そうなものだ。
やがて妃は、僕と少し身を離した隣に横になった。
こちらは見ず、無造作に片手で鼻を摘まんでくる。
「むぐ……」
「静かに眠るのだぞ。妾の眠りを妨げるなら、蹴落としてくれる」
「……ん」
この国有数の貴婦人からとは思えない、豪気なお言葉を頂戴した。
両手両足不如意のままベッドからの転落は御免被りたいので、できるだけご意向に沿うべく心に刻みつけることにする。
間もなく隣からは、静かな寝息が聞こえてきた。
このままごそごそ身じろぎしながら考え事をしていて勘気に触れるのもありがたくない成り行きなので、目を閉じて就眠に努める。
昨夜の半眠歩行分、まだ疲れはとれていなかったようだ。加えて、何処からともなく漂う、妙に懐かしいような、心安まる香り。
そんなこんなで、幸いすぐに眠りは訪れた。
目覚めは、生命維持の危機とともに襲来した。
息ができない。鼻と口を塞がれ――。
「むぐ、ぐ……ぷはあ――」
「起きよ」
紛れもない金髪の殺人未遂犯は、半身を起こして冷ややかな横目で見下ろしていた。
「おは……むが――」
お利口に挨拶をしようとしたら、一度離れた鼻摘まみの指が戻ってきた。
理不尽だ。
横を見ると、寝台脇にタベアと若い侍女が一人立っている。
すぐにタベアが僕を抱き上げ、歩き出した。
若い侍女は妃の着替えの世話をするのだろう。
居間に戻ると、元のソファ前にメヒティルトが立っていた。
座面に乗せられているのは、僕の着替えのようだ。
タベアに下ろしてもらい、おくるみの首元が緩められる。あとは黙々と、メヒティルトが着替えをしてくれた。
ベテラン侍女は黙ったまま、横からそれを観察している。最後に涎掛けの紐を結ぶメヒティルトの手が、かすかに震えていた。
一通り終了したところで、タベアが手を伸ばして涎掛けに触れてきた。一度考える素振りの後、改めて僕を寝かせておくるみに包む。拘束状態はまだ続くらしい。
そのまま寝かされていると、頭上側の席に女主人が戻ってきた。
メヒティルトは奥に下がり、タベアが茶を淹れて運んできたようだ。
ひととき、寝かされた赤ん坊など目もくれず、喫茶が続く。
やがて落ち着きを待って、という様子で、タベアが話しかけた。
「王太子殿下から、お昼食後にお会いいただけないか、と連絡が来ております」
「そう。承知のお返事をして頂戴」
「かしこまりました」
ためらいなく応えて、静かに茶を啜る音が続く。
部屋の様子は、仮眠前と変わらない。
入口側に、テティスとザム、他に二人の護衛が立つ。
タベア以外の侍女は、奥で作業のようだ。
足向きの窓の外、好天の陽は高くなっている。さっきの睡眠が注文通り四刻程度だったとしたら、もう午近いはずだ。
見直すと、壁際に蹲るザムはこちらを見ながらしきりと尾を振っている。運動をしてきて、僕の姿を確認し、とりあえずご機嫌状態らしい。つまりはこの部屋に、ザムが感じる危険はないということだ。
しばらくして、昼食の準備に侍女たちが動き出した。
朝と同様、食堂に移動される。
見るからに軽めのメニューが並ぶ妃の隣に座り、今日は僕の世話当番のメヒティルトに見守られながら、離乳食に匙を入れた。
ひととき、静かに食事が続く。
いかにも上品に食べ終え、妃は食後の茶を喫していた。
その視線が、久方ぶりにぎろりとこちらへ落ちた。
「其方」
「ん」
「付きの者たち、解雇するがよかろう」
「は?」
『付きの者たち』という表現をとることからすると、護衛と侍女三人、全員ということだろう。
昨夜からの経緯で、全員使い物にならない、という判断だろうか。
困惑、してしまう。
「余計なお世話、口出し無用」と撥ねつけること自体不可能ではないだろうが、なかなか難しい問題があるのだ。
最近知ったことだが。この後宮運営上の明文化された規則によると。
すでに知っているように、ここは正妃が統括し、女官長が実務の責任を担う、ということになっている。
さらにそこに、第二妃はそれを補佐、助言を行う、ということまでが明記されているのだ。
現在の実態は、女官長にいろいろ第三妃と四妃が口出しをしているようだが、つまり法規上この二人に実権はない。
一方で、こちらの第二妃には、はっきりと権限がある。
人事の上で第二妃が侍女や護衛を解雇すると断を下した場合、おそらく正妃が反対しない限り通ってしまうことになるはずだ。
『解雇』という表現は、「ルートルフ付きを外す」という意味ではなく、後宮の職を解く、ということだ。
これもおそらく、何処の部屋付きにするかの判断は女官長に委ねられるが、後宮職の採否判断は正妃と二妃の意見を伺う、という慣例から来ているものだろう。
第二妃が本気で断を下す、ということなら、これはほぼここで決定に等しいことになる。
「その……」
「其方の意見は不要」
左手をわずかに掲げて、妃は何かを摘まむ仕草をとった。
座席の都合でこちらの鼻に届かないのが、幸いだった。
無表情のまま、妃は傍らの侍女に視線を流した。
それを受けて、タベアは滑らかに口を開く。
「当然でございます。赤子様のご成長について、本人が配慮できるはずはありませんので」
「は?」
「このままでは、ルートルフ様は正常なご成長ができませぬ」
見ると、こちら横のメヒティルトは顔面蒼白のまま硬直している。
また気がつくと、食堂入口に移動してきた護衛としてテティスが立ち、その傍らにナディーネとカティンカもいる。三人とも呆然と青い顔になっていた。
もしかすると、あえてこの話を聞かせるために呼んだのだろうか。
困惑のまま、僕はタベアに向けて視線を戻した。
発言を禁じられているので、目で問うことにする。
理解したようで、ベテラン侍女は小さく頷いた。
「例えばその今のお食事ですが、ルートルフ様は一生固いものを口にせずに過ごすおつもりでしょうか」
「え?」
「離乳食は、赤子の成長を見て日々見直しをかけなければなりません。歯が生え揃ってきたなら、それに合わせて徐々に固いものも慣らしていかなければ」
――食事については、調理場の王族育児に慣れた人が配慮していると聞いたけど。
そんな疑問への対応は、こちらが口に出さなくてもタベアの頭にあったようだ。
「調理する者は、赤子本人を見ているわけではありません。傍の者が適宜、調理の者に情報を伝えていかないと、適切な変化がなされないのです。言ってしまえば、侍女の方から食事内容を変える依頼がなければ、いつまでもこのままです」
――そんなこと、早く言ってくれ。
確かに、赤ん坊本人や育児経験知識のない侍女、護衛に、分かるはずもないことなのだ。
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