第83話 赤ん坊、面会室へ行く 1

「他に、歯磨きの注意は先ほども言いましたが――」


 と、ベテラン侍女はこの朝から気がついた点をいくつか並べ挙げた。


「その、ルートルフ様がつけていらっしゃる涎掛けも特殊な生地ですから、他のものと区別して洗濯しないと、すぐ固くなってしまいます。自分たちで手洗いをすべきでしょう」


 聞いていって、こちらの侍女たちはすっかり魂が抜けたような様子になっていた。

 隣で、妃はふんと鼻を鳴らしている。


「まあ、今の後宮にそれほど知識のあるものはいないだろうな。このタベアを除いては」

「はい。わたしは領でイレーネ様の子守りをさせていただいたのを始め、自分の子ども二人を育て、王太子殿下のご幼少時にお付きし、こちらに戻らせていただいています。他の王子王女殿下の赤子時をお世話した者たちは皆、すべて後宮を離れたはずですので。女官長も独身で、実際の育児経験はないと聞きます」

「は?」


――それって当然、妃たちや女官たち、全員承知していることでは?


 何故――と疑念が浮かんでも、僕は発言を禁じられている。

 わずかな、重い沈黙の後。

 戸口脇で、テティスが深く頭を下げた。


「恐れ入ります。発言を、お許しいただけますでしょうか」

「申してみよ」

「そういうことでしたら、何故ルートルフ様の後宮入りの際、育児知識のある者が配置されなかったか――」

「頼まれれば、短期間タベアを貸し出すのもやぶさかではなかったのだがな。正妃殿下の指示の元、こちらに打診もなく動き始めておったわ」


 女官長に指示が降りた後は、三四妃辺りの意図的な介入があったのではないかと想像されるのだが。

 最初に正妃からしっかり指示はなかったのか、という疑問は浮かぶ。

 ちらり僕を見て、思いを読みとったように妃は軽く肩をすくめた。


「良くも悪くも浮世事に拘りのない、『よきにはからえ』の方じゃからの」

「正妃殿下の裁量の後、こちらから異を唱えるのはお顔を潰すことになりますからね」


 タベアも、当然のように平らかに応える。

 つまりこちらでも、官僚的、前例踏襲、というまつりごとの流れになっているわけだ。

 こうべを低くしたまま、テティスも苦いものを飲んだ顔になっていた。


「それでは――それでは、お願い申し上げます。これからでも、妃殿下とタベア殿のお力をお借り――」

「無断侵入の無礼者に、何故妾が力を貸さねばならぬのじゃ?」


 ふん、と冷ややかに鼻を鳴らす。

 薄い笑いを傍らの侍女に送り、また肩をすくめて。


「申したように、数日はこれを玩具にして遊ぶがの。飽きたら、その後は知らぬ。無礼な主が処分された後、付きの者たちがどうなろうとたいしたことではなかろう。思ってみると、さっきの助言も意味なかったの。今、付きの者の解雇など考えていられる立場ではなかったよの、此奴は」


 くつくつ笑い、妃は茶を飲み干した。

 ナプキンを畳んで卓に置き、あっさり立ち上がる。


「王太子殿下の面会に赴かなければならぬ。殿下が心配するであろうから、其方も同道するのだぞ」

「ん」


 再びタベアに抱かれ、居間のソファに運ばれた。

 妃は外出準備をしていたようだが、寝室から出てきた様子にさほど変わりは見られない。服装容姿を『調えた』程度なのだろう。


「参るぞ」


 同伴する侍女はやはりタベアだけのようで、僕はその腕に抱き上げられた。

 護衛も戸口前にいた二人だけで、テティスは残るよう言い渡されている。


 廊下に出て、護衛一人を先頭に、女官室や僕の部屋方向とは逆向きに進む。

 すぐに大きな扉に突き当たる。さっきカティンカが指示されていた、執務棟側に出る戸口だろう。

 そこを開くのかと思いきや、手前の左手に見えていた扉に、一行は入った。

 中は妃の居間と同じ程度の広さで、テーブルを挟んでソファが向かい合う応接セットらしきものが三組並んでいた。

 右奥に戸口が見えるのは、外の大扉との位置関係からして、執務棟に続くものだろう。

 つまりは、後宮の住人が外の者と会うための、面会室ということらしい。


 中に控えていたこの部屋専用の侍女らしい人が一礼の上寄ってきて、中央のソファへ妃を案内した。

 僕も隣に下ろされながら、見ると、右奥の応接テーブルになかなか豪奢な厚手の板と小箱が並べられていた。あまり見たことのない装備品だ。

 興味を持って見ていると、おくるみを調えながらタベアが教えてくれた。


「『ラヌカ』の盤と石でございますよ。正妃殿下がよく、ここで外の方と対局なさるのです」

「あの方はこの国で、名人に次ぐ腕前だからの。月に一度はここに名人を呼んで、練習対局をされるようじゃ」

「ふうん」


 くわしくは知らないが『ラヌカ』というゲームの道具らしい。

『名人に次ぐ腕前』というものも正確によく分からないが、なかなかにすごいことなのではないだろうか。

 さらに聞くと、名人というのは国内の大会で五連覇した人に贈られる称号で、現在はラッヘンマン侯爵家の引退した元当主だということだ。

 そんな話を聞いているうち、奥の扉から王太子が入室してきた。


「母上、ご機嫌麗しゅう」

「殿下も、ご壮健のようで何よりです」


 ひとしきりの挨拶が交わされる。

 僕と言えば、おくるみで動きがとれないので礼の形も作れず、発声を禁じられて挨拶もできない。ただ赤ん坊らしく、大人しく椅子の背にもたれているだけだ。

 いっそさらに赤ん坊らしくここで泣き喚いてやろうか、とふと誘惑に駆られもするが、当然王太子に呆れられるだけだろうから、やめにしておく。

 やはりそれほど待たされることもなく、王太子の目がこちらに向いてきた。


「して、どういうことなのですか。先ほどのふみでは状況がよく分からなかったのですが」

「夜中にわたしの部屋に闖入してきた無礼者です。当然の権利で、こちらで処分いたします」

「はあ?」


 どういうことだ、と僕の方に詰問の目が向けられる。

 しかし、返答は禁じられているので。視線を宙に向けて、逸らすしかない。

 無表情のまま、タベアが説明を加えてくれた。


「どうも、寝呆けて一人で歩いていらしたようです。それ以上のことは誰にも、ご本人にも分からないようで」

「何……だ?」

「それでも、赤子の行動として、まったくないことでもないのですよ」

「そう、なのか?」

「何であれ、無礼行為に相違ありません。ということですので、此奴の身柄はしばらくわたしが預かります」

「え、いや――母上」

「傍に置いて玩具にしますので、まあ三日もすれば飽きるでしょう。此奴の処遇はそれから改めて考えるということで」

「いやいや、母上、困ります」


 慌てて、王太子の手が振られる。


「現在新しい事業を軌道に乗せる段階で、ルートルフの存在は欠かすことができないのです」

「何やら、新しい製品開発がなされた、とは聞きましたね。具体的には明日明後日、此奴に何をさせねばならぬのですか」

「昨日に続いて、あと数日は、各領主に製紙業の具体的内容について説明しなければなりません」

「具体的内容を、この赤子が説明するのですか」

「はい。ルートルフはその開発者ですので」

「それは分かりますが。明日明後日の説明は、昨日と異なるものなのですか?」

「いえ、そこは同一です」

「でしたら、昨日それを聞いていた殿下なら、もうお一人でできるのではないですか?」

「え……あ」

「明日以降の相手は、ますます殿下のなされることに懐疑的な領主が多くなると聞いています。こんな赤子に頼るより、自分お一人で交渉をなされた方が与える印象は強くなるのではないかと思いますよ」

「は、あ……」


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