第84話 赤ん坊、面会室へ行く 2
澄ました顔で、妃はティーカップを口に運ぶ。
王太子はぽかんとした顔で、視線を虚空に据えていた。
考えてみると、確かにそうなのだ。
昨日僕がしていた紙に関する説明は定型的なもので、同じ話を三回聞いている王太子にできないはずはない。補助としてヴァルターは傍にいる。
この後の領主への説明で困難が予想される点は反王太子派への対応で、そこは僕の任ではない。王太子に頑張ってもらう以外、ないはずだ。
それにしてもこの妃、まったく知らないような顔をして、王太子の活動についてあり得ないほど細かく承知しているらしい。
「……分かりました。ルートルフは母上にお預けします」
――玩具扱いを、承認するんかい!
「それで、ルートルフの拘束は三日間、今日から明日明後日まで、ということでよろしいのでしょうか」
「飽きるまでにはそんなところでしょうね。その間に無礼な態度があれば斬り捨てるかもしれませんし、三日経って気に入らなければ王族への反逆人として司法庁へ引き渡すかもしれませんが」
「……お手柔らかに願いたいのですが」
「妃の部屋へ強行侵入の事実は、動かせませんからね」
「それは寝呆けたせいと、先ほど言いませんでしたか?」
「表面上そのように見えますけどね。ふつうではない小狡い知恵を持つ赤子なのでしょう? どのように装うか、分かったものではありません」
「お付きの者に訊いても、今までこのようなことはなかったそうですしね」
妃の言葉に、侍女が表情も変えず補足する。
まあ確かに、それにまちがいはない。
僕自身もこんな、夢の中半分に歩き回るなど、これまで経験の記憶がないのだ。
渋い表情で、王太子は首を傾げた。
「これまでなかったということなら、最近になって原因が生じたということでしょうか」
「そこは、殿下がお考えになることでしょうね。一応此奴を預かって管理する役回りなのでしょう? そちらのお仕事でまず成果が一つ出たということですから、それで満足でこれ以上こんな赤子を預かる面倒を抱え込みたくないと思し召しなら、よい名分があることですからこちらで始末して差し上げます。まだ利用する価値があるということなら、それなりに長持ちできる配慮をなさってもよろしいのではないでしょうか」
――人を物扱いにして、物騒なこと宣っているし。
「いや、まだルートルフには働いてもらわなければならないのですが……」
ふう、と息を吐いて。
顰めた顔を、王太子は母親の侍女へ向けた。
「赤子としてまったくなくもない、と言ったな。そういう、寝呆けか? 何か原因となるものは分かるか」
「決まった原因を特定するのは無理でしょうが、よくありがちなのは、昼間動きすぎて疲れた場合、睡眠時間の不足、または逆に睡眠過剰、といったところでしょうか」
「ふむ」
「他には、何か不安なことがある、昼間何かに興奮した」
「……む」
「もっと具体的な例としては、いつも傍にいた家族などがいなくなって不安になった、などというのを聞いたことがございます」
「………」
――……思い当たることが、ありすぎるんですけど。
そう言えば、週に一度面会していた父と、今週は会っていない。
いろいろ、自らの行動を反芻していると。
ふ、と妃が鼻で笑った。
「赤子というのは、面倒なものでしょう? このようなものに手を煩わせるより、いっそ始末するのがよいのではないですか。へたに野に放したら、他国に奪われて利用される恐れもあるのでしょう?」
「……それはそう、なのですが」
――おい。
まさか、本気で『始末』を検討するわけじゃないだろうな。
たぶん手を外に出せなくても『光』は使えるよな、などと思わず頭によぎらせてしまう。
「まあしかし、少なくとも明後日まではこちらで預かりますので、ゆっくりお考えになるといいですよ。『金の卵を抱く亀』の喩えもあります。短期の利益を取るか長く利を得続けるか、使う者次第です」
「……はい」
「母は殿下の味方ですからね。面倒な汚れ部分を引き受けるのも、否やはありませんよ」
「……ありがたく存じます」
――いやいやいや。
何物騒なこと言い交わしているの、この母子。
こてんと脱力して、僕は天井を仰いでいた。
「しかし母上、そんなことでよろしいのですか? このルートルフとは、血の繋がりがあるのですよね」
「よろしいのですよ。此奴の母親には、積もる恨みがあるのですから」
「そうなのですか」
「母は、殿下の利を第一に考えます」
――ひえ……。
何とも、事情は分からないけど。
血縁間の因縁、特に姉妹の情の拗れには、一筋縄ではいかないものがありそうだ。
――母上、いったい何をしたんねん。
『女の係り合いには近づかぬが吉』と『記憶』様が忠言を囁いてくださっているし。
聞かなかったことにしたいのだが、この妃殿下、許してくれないだろうな、と思う。
どう考えても今の発言、僕に突きつけるつもり十分で口にしたとしか思えない。
深々と嘆息していると。
王太子は話を切り上げて引き上げる様子だ。
せめて、一点は伝えておきたい。
「でんか」
「ん、何だ」
「あした、じじょふたりは、しつむしつへいかせる」
「そうか、分かった。ヴァルターに伝えておく」
言い置いて、席を立っていく。
それを見送ってから、頬をつねられた。命令違反の罰、ということだろう。
今までよりは込められた力が弱い、気はした。
まあ、僕の都合を慮ったというよりは、王太子の執務に必要な伝達と判断したせい、と思われる。
その後、こちらも部屋に帰還するのだろうと思ったけど。
ゆったり腰かけたまま、妃はカップに残る茶を喫していた。
何とも茶が好きらしい、ひっきりなしに飲んでいる印象のお妃様だ。もしかするとカップの中身は必ず飲み干さないと気が済まない、という性格なのかもしれない。
その茶器が置かれたところで、タベアが妃の衣服を整えて椅子から立たせた。僕も、おくるみごと抱き上げられる。
部屋に戻ると、戸口に立つテティスともう一人の護衛に迎えられた。
入った居間に、侍女たちの姿はない。また奥で、作業をしているのだろう。
何とはなしに、その奥へ向けて首を伸ばしていると。
「他に所用のない侍女たちは、あちらで刺繍や編み物をしているのですよ」と、タベアが教えてくれた。
うちの侍女三人も、それを教えてもらいながら手伝っているらしい。
元のソファに寝せられると、やることがなくなった。
起き上がりも移動もできず、発声も禁じられている。
頭上では、妃がまた読書を始めたようだ。
窓の外、陽は高い。
戸口の護衛は、テティスともう一人。
室内には、妃の後ろ横に立つタベアだけ。
本をめくる板の音が時おりかたんと響く他、静寂が続く。
薄く窓が開けられて、涼しい風が入ってくる。
誰からも声はなく。
静か、静寂。
他になすすべもなく、ゆっくり僕は眠りに落ちていった。
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