第85話 赤ん坊、取り引きする

 足を空踏みして。

 目を開いた。

 身じろぎすると、金髪の女性にじろりと睨み下ろされた。

 おもむろに手が伸び、頬を摘ままれる。

 まだ声を出していないんだけど、と抗議したくなる。


 ゆっくりタベアが奥に向かった、らしい。

 呼ばれたようで、小走り寸前の早足で、メヒティルトが出てきた。

 ソファに寄って、おくるみの首元を寛げてくれる。

 気がついてみると僕は、寝汗で濡れそぼっているのだった。


「よくお休みでしたね。一刻半くらい、お眠りになったみたいですよ」

「ん」


 汗まみれの衣服を、着替えさせられる。

 抱き上げられ、トイレに連れていかれる。

 ソファに戻り、湯冷ましを飲ませてもらう。

 当番のメヒティルトがそんな奉仕をしている間、ナディーネとカティンカも出てきて、離れて見守っているようだ。

 妃とタベアも、あまり関心の表情は作らないまま、ちらちら眺めている。

 そのまま僕は、おくるみには入れられず、ソファの背にもたれて座らされた。

 隣から手が伸びてきて、また頬を摘ままれた。


「大人しく、しているのだぞ」

「ん」


 とりあえず、おくるみ拘束は免除されたらしい。

 まだ昼下がりの暑さが残る時間帯で、汗疹あせもの心配が軽減されるのは助かる。

 タベアから手で指示されたらしく、メヒティルトは下がっていった。

 妃はまた、読書に戻る。

 座り姿勢で少し頭が高くなって、わずかながら木の板を覗くことができるようになった。

 ちらちら読みとれる文章は、どうも物語の類いらしい。

 以前ヴァルターに訊ねてみても、そういう種類の本は図書館にほぼないし、市中で売られていると聞いたこともない、という返答だったが。

 質問したくても、発声を禁じられていてできない。

 ましてや、読書の邪魔をしたらどんな仕打ちが返ってくるか、想像するだに恐ろしい。

 思っていると、タベアが茶を運んでくるのが見えた。

 妃の顔が上がり、カップを受けとる。

 またとない、希少な機会と思われる。


「ばぶばぶ」

「……む」

「だあだあ」

「な?」

「ばぶばぶばぶ」

「ああ、わざとらしい。うっとうしいわ!」

「ひゃう」


 カップを卓上において、しこたま頬をつねられた。

 言葉にするのが薄気味悪いと言うから、赤ん坊らしい声にしたのに。

 言われた通り大人しく、この場を動かないでいるのに。

 理不尽だ。


「赤子が赤子の真似をして声を出すなど、ますます気味悪いわ」


――では、どうしろと?


 精一杯可愛らしく首を傾げてみせると、うんざりと顔を顰められた。

 額に手を当て、しばし黙して。それから、ふん、と鼻が鳴らされる。


「それほどに、薄気味悪い言葉を出したいか」

「ん」

「其方次第では、必要な範囲なら許してもよいぞ」

「ん?」

「其方が持つ、貴重なものを提供すると申すならの」

「……ん?」


――貴重なもの?


 ―――。

 思い当たらない。

 そもそも僕は、ほとんど私物を所有していないのだ。

 私室にあるのも、王宮からの支給物以外では、図書館から借りてきた本とわずかな衣類だけ、のはず。

 今度は演技抜きで、首を傾げていると。

 ぎろり横目で睨み、妃の口角がわずかに持ち上がった。


「秘密のものを、持ってこさせよ」

「……は?」

「惚けるでない。数日前、こっそり調理見習いに作らせていた菓子じゃ」

「……ああ」


 小さな手を、ぽんと打ち合わせる。

 思い出した。


「ぱんけーき?」

「何というか知らぬ。こっそり作っていたものよ」

「よく、しってた」

「侮るでない。調理室の情報は、筒抜けじゃ」

「へええ」

「見習いに問い糾させても、これは秘密、ルートルフ様の許可なく作れない、などととぬかしたそうな」

「わ」


 クヌート……。

 こちらとしては半分冗談だったんだけど、律儀に言いつけを守ったらしい。


「わかった、しかたない。とくべつ、つくらせる」

「うむ」


 たいしたものではないのだけど、勿体をつけることにする。

 ナディーネを呼んで、調理見習いへの伝言を頼んだ。

 先日のパンケーキを、十五個。

 これからだとすぐに作れないかもしれないが、できるだけ早く、ということで。

 侍女が出ていくと。

 こちらの女主人の顔は、何処か満足げになっていた。

 それにしても、と思う。


「ちょうりしつ、じょうほう?」

「当たり前じゃ、その辺には目を光らせておる。特に調理室は、重要監視地点じゃからな」

「そなの?」

「他の妃がこっそり美味いものを作らせていたら、腹立たしいであろうが」

「わ……」

「どの妃も、あそこには自分の息のかかった者を入れておるぞ」

「正妃殿下だけは、そういったところにご関心はないようですけどね」

「そうであったな、あの方は」


 侍女の付言に、妃は苦笑いになった。

 そういった点でも、正妃は浮世離れした存在というもっぱらの認識らしい。


「それでも、執務棟側担当の見習いにまで観察を怠らなかったのは、妾の手の者だけじゃ。日頃の指導の差じゃな」

「はあ……」


 妃間の抜け駆けを見張る目的なら、確かに後宮側の調理担当に気をつけていれば十分だろう。

 いや、しかし……。

 思ってしまう。


――その情熱、もっと有益なものに向けられないのだろうか。


 戻ってきたナディーネの報告によると。

 クヌートはすぐ指示に従うということだが、おそらく夕食準備前には材料を揃えるのが精一杯、実際の調理開始は夕食後になるという。したがって、出来上がりをお届けするのは食後デザートとしても少々遅い頃合いになりそう、という返答だ。

 指示がかなり遅かったせいなので、その辺は仕方ない。

 聞いて、妃も黙って頷いている。

 加えてナディーネから、調理場の離乳食担当と相談してきたという話もあった。


「ルートルフ様の現状をお伝えしたところ、今日の夕食には間に合わないが、明日からはお食事内容を考慮する、という返事でした」

「ん」


 妙に強ばった顔で報告する侍女に、頷き返す。

 聞いている妃からもベテラン侍女からも口入れはないので、その点問題はないということなのだろう。


 ナディーネは下がらされ、妃は読書に戻る。

 かたん、かたん、とページを捲る音だけが続く。

 またやることがなく、僕はぼんやり横からそれを眺めるばかり。

 ややしばらくして。

 いきなり手が伸びてきて、鼻を摘ままれた。


「むぎゅ」

「覗き見、気になるわ」


 書面から目を離さないまま、宣われた。

 邪魔にならないように、声も抑えていたのに。

 理不尽だ。


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