第86話 赤ん坊、お噺を聞く

「ぼくも、どくしょ、したい」

「赤子の分際で、生意気じゃ」


 やはり顔も動かさず、一刀のもとに斬り捨てられる。

 囚われの身としては、言い募ることもできない。


――ぶうぶう……。


 さてどうすべえか、天井を見上げて考えていると。

 妃の向こうから、タベアが声をかけてきた。


「それでしたら子どもらしく、お伽噺の読み聞かせはいかがでしょうか」

「よみきかせ?」

「はい。子ども向けのお話を書き留めたものが何冊かございますので、侍女に音読させます。さすがに一歳を過ぎたばかりのお子様には早すぎるかもしれませんが、それでもご自分で読まれるのに比べますと、許容範囲なのではないでしょうか」

「ふむ。まあそうじゃな」


 侍女に問いかけられて、妃はつまらなそうに頷いている。

 片やかなり興味を惹かれて、「わうわう」と僕は期待露わに両手を振り動かしてみせる。

 小さく笑って、タベアは奥に下がっていった。

 少しして戻ってきた、その後ろに板の本を抱えたメヒティルトが続いてくる。

 妃とは距離をとったソファの端に移動され、傍らに木の簡易腰掛けを持ち出してメヒティルトが座る。その膝に本が開かれ、タベアの指示の元、音読が始まった。


「むかしむかしあるところに、小さなお兄さんといもうとがすんでいました――」


 噺は、地方に伝わる伝承のようなものらしい。空から舞い降りてきた精霊が幼い兄妹と遊んだという、短く他愛のないものだった。

 それでも、生まれてこの方こうした空想物語に接した経験のなかった僕には、新鮮な刺激だ。

 読み手のメヒティルトも経験不足からだろう、最初は声も小さく、震えたり聞きとりにくいことがあったが、その都度タベアから「もっとはっきりと」「情感を込めて」などと指導を加えられて、いくぶん改善してきた。

 それも初めは緊張や義務感丸出しの強ばった音調だったものが、話が佳境に入ると徐々に熱がこもってくる。

 終いには、精霊の助けで兄妹が迷子になっていた森の中から戻ることができたというくだりでは、「よかったですねえ」と個人の情感のこもった感想まで入ってきた。

 音読の手本からするとどうかと思われるが、子どもへの読み聞かせとしてはこれもアリなのかもしれない。横手のタベアからも、たしなめようとして思い留まったらしい気配が察せられた。


「はい、めでたしめでたしですう」

「ん。よかったよかった」


 ぱちぱち手を叩いてやると、侍女は満面の笑みになっていた。

 途中から口を挟まなくなっていたタベアも、穏やかな表情で頷いている。

 ソファの逆側で読書中の妃は、姿勢を変える気配もない。

 一息ついて、僕は室内を見回した。


「つぎ、うんどうする」

「運動でございますか?」


 軽く目を瞠って、タベアは主人の顔を見る。

 無下に禁止して済ます事柄でもない、と判断を仰ぐ様子だ。

 妃は本から目を離さず、ふん、と鼻を鳴らした。


「その辺で動くだけなら、勝手にせよ」

「ん」


 テーブルの向こうを顎で示されて、よっこらと立ち上がる。

 もともと広い室内で、ソファとテーブルを除いた部分の床は、大人二人が取っ組み合いできそうなくらいの広さがある。

 とことこ歩み出て、僕は入口方向を見た。


「ざむ」

「ウォン」


 呼びかけると、即座に相棒は機嫌よく駆け寄ってきた。

 この部屋の護衛と侍女が一瞬制止に動きかけた気配があったが、気にせずその首を撫でる。

 ぐしぐし撫でてから脇に並び立ち、軽くお尻の上を叩いてやる。

 そのまま手を置いて支えてもらい、ゆっくり歩調を合わせて室内を回るのだ。僕の『あんよ』運動に適切な歩み具合は、ザムが十分心得ている。

 部屋の空きスペースをぐるり一周で、およそ十マータ程度だろうか。そこを一廻り、二廻り。

 廻って向きを変えると、戸口側でここの護衛が感心の顔で口をすぼめているのが見えた。

 タベアもメヒティルトも興味膨れた様相で、この歩みを目で追っている。

 妃も、わずかに本から上げた視線をこちらに向けているようだ。

 見慣れているテティスは平然としているが、当然僕が何かにつまずくなどまちがいのないように気を払っているだろう。


 四周、五周――。

 十周を超えた頃には、少し足に重いものを感じ出していた。

 ザムに合図して足を止め、その身を伏せさせる。

 よいしょと背に乗ると、ますます嬉しそうにザムは足を立てた。

 すぐに、今までよりは軽快な足どりでまた周回を始める。

 毛深い首を抱き、脇にしっかり足を押し当てて、僕はその振動に身を委ねた。


「オオカミに乗ってしまっては、本人の運動にならぬではないか」

「いえ。乗馬にしましても、人の運動になるものでございますよ。バランスをとったり、足で締めつけ緩めを調節したりで。赤子様にとっては十分な運動と思います」

「そんなものか」


 妃と侍女が、そんな会話を交わしている。

 護衛は、ますます感心の様子でこちらに見入っている。

 注目を浴びながらさらに室内を十周程度して、僕はその足を止めさせた。


「ありがと、ざむ」

「ウォン」


 もう一度ぐしぐし首を撫でて、親友を護衛の方に帰してやる。

 ひょこひょこソファに戻ると、タベアが穏やかに頷いていた。


「ちゃんと運動もなさっているのですね」

「ん」


 頷き返す、けど。

 実際には久しぶり、というより事実上王宮に来てから初めての鍛錬なので、やや後ろめたいものがあったりする。

 実際のところは、朝から果たせなかったザムとのスキンシップを満喫するのがいちばんの目的だったのだから。

 僕を迎えるメヒティルトの物珍しげな愉悦ぶりを見ると、妃たちにもその点バレバレなのではないかと、今にも動揺が顔に出そうな思いなのだった。

 抱き上げてソファに座らせてくれながら、メヒティルトはやや華やいだ声を上げた。


「ルートルフ様、少し汗をおかきですう。お着替え、お持ちしますね」

「ん」


 急ぎ足で、奥の部屋に向かう。

 必要な着替えなどはあちらの部屋から運んできているらしい。

 侍女はすぐに戻ってきて、僕は汗を拭かれ、着替えさせられた。


 ソファに落ち着いて、またメヒティルトに本を読んでもらう。

 さっきのとは別の地方のもので、子鬼が村の人間に悪戯をして回るという愉快な噺だった。それほど時間をかけない読み終わりに、僕はぱちぱち手を叩く。

 やはり傍に立って見守るタベアの顔を見上げた。


「これ、ほしい」

「差し上げるわけには参りません」

「かきうつす」

「写す……のでございますか?」


 当惑顔で、侍女は主に目を移した。

 本から目を離さないまま、妃はふんと鼻を鳴らした。

 自分の読書は姿勢はそのままに、こちらの声は聞こえていたらしい。


「物好きな――好きにせよ」

「ども」


 会釈して、僕は侍女に向き直った。

 専制主の気が変わらないうちに、と手早く指示を出しておく。


「めひてると、しゃほんを」

「かしこまりました」


 にこやかに立ち上がり、「失礼します」と周りに断って、メヒティルトは部屋を出ていった。

 ややあって戻ってきた両手に、十数枚ほどの紙とペンとインクが抱えられていた。

 すぐ傍に簡易テーブルを借りて態勢を整えさせ、僕は横から細かく指示を与えた。

 字の大きさ、一枚当たりの字数、できるだけ可愛らしい字体になるように――。

 はい、はい、と頷いて、侍女は迷いない様子で筆記を始めた。

 逆側から、物珍しそうにタベアがその手元を覗き込んでいる。

 姿勢を楽に戻して、見ると、妃も本から顔を上げてこちらに目を向けていた。

 顔が合うと、 ややむっとしたように眉を寄せる。


「あれが、話に聞いた紙というものか」

「ん」

「貴重なものであろうに。贅沢な」

「おはなし、それだけ、かちある」

「ふん、聞いたふうなことを」


 肩をすくめて、自分の手元に向き直っていった。


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