第50話 赤ん坊、研究者と会う

 僕は相変わらず、ザムに掴まって『あんよ練習』の日々。未だに、手を離すと数歩進まずに尻餅をついてしまう。

 兄には「お前、頭が重すぎるんじゃないか?」と、真面目とも冗談ともつかない顔で心配された。

 この自足歩行についても、カーリンに先を越された。この点は、諦めるしかない。

 ただ少し困ってきたのは、カーリンが元気よすぎでじっとしていることが少なく、ウェスタの台所仕事に支障が出てきたことだ。

 このため、ベティーナが赤ん坊二人を一緒に見ることにして、カーリンは僕の傍に置かれることが多くなった。

 これも一つの務めと観念して、僕は父に贈られた積み木や木製玩具を広げ、彼女の相手をすることになった。「相手をする」とは言ってももちろん、傍目には仲よく対等に遊んでいるようにしか映らないだろうけど。

 傍にいると、カーリンは何でも僕の真似をして、嬉々として積み木に熱中したりしている。数日経つうち、とにかく僕の側から離れたがらないようになった。

「るーしゃま」「るーしゃま」と呼んで、積み木で僕と同じ建築物を作ろうとする。

 もちろんまだ十分に口は動かないし、主筋への配慮など望むべくもないのだけど、とにかく「しゃま」だけはつけるように、それだけはウェスタが躾けたようだ。

 当然の流れとして、午後からの散歩も一緒につき合うようになった。ザムの背中の上、僕の後ろにぴったり貼りついて、きゃっきゃとご機嫌だ。

「おんま、おんま」「たかーい」と、足をぱたぱた、両手はひしと僕に抱きついてくる。

 ちなみにカーリンは、初対面からまったくザムに警戒心を持たない最初の人類として記録に残ることになった。それどころか顔を合わすなりいきなりオオカミの首に噛みつきそうになって、慌てたベティーナに抱き留められたほどだ。

「噛みつき」とは言ってももちろん、彼女特有の家族や仲間への親愛の表れだ。近くに寄るのは初めてでも、以前からキッチンや食堂に寝かされていてザムが歩き回るのは見ていたので、家族同様と刷り込み済みだったようだ。

 散歩の間は、背中にカーリン、両脇にベティーナとテティス、と異様に女子率の高い道行きになっていた。

 まあとにかくも、平和な日々が続いている。


 二の月に入って、数日。この日もそんな顔ぶれで、屋敷を出た、ときだった。

 街道の南方面から、歩いてくる人影が見えた。まだ若い男のようだ。

 まだ領主邸の門の中にいるこちらを見つけて、軽く頭を下げてみせる。


「すみません、こちらベルシュマン男爵領の領主邸でしょうか」

「いかにも、領主邸だが。領主に用だろうか」


 テティスが一歩前に出て、応える。

 男は門近くまで歩み寄って、もう一度軽く会釈した。

 近くで見ても若い、まだ十五~六歳くらいか。こざっぱりした身なりは貴族でもおかしくないが、一人旅らしい様子を見ると高い身分ではないのだろう。

 旅の汚れを拭えばそこそこ美麗そうな顔に、人懐こい笑みを浮かべる。


「いえ、こちらの領にいるはずのニコラウス・ベッセルという人を訪ねてきたんです。ああ私、アルノルト・フイヴェールツという、貧乏貴族の三男です」

「そうか。わたしは領主邸の警備をしているテティスという。申し訳ないが、最近物騒な出来事が続いて警備を強化しているところなので、差し支えなければ用向きなど聞かせてもらえないだろうか」

「ああはい、噂には聞いています。私はベッセルさんの学校の後輩でして、最近の先輩の研究内容について話を聞きたくて参ったところです」

「なるほど」


 少しの間、テティスの視線は男の頭から足の先までを往復した。相手の戦闘能力を見極めているようだ。

 会話の間に、僕らの後ろには警固番の村人三人が出てきている。南方面から村に入る通行人の監視も彼らの任務なのだ。

 三人に軽く頷きかけて、テティスは男に目を戻した。


「申し訳ないが、少しだけ待ってもらえるだろうか」

「はい、構いませんよ」


 村人警固にこの場を任せて、テティスは玄関口に戻った。

 つまりはテティスの戦闘能力判定として、この男の相手は村人三人とザムで対応できるということなのだろう、

 様子に気づいて出てきたらしいヘンリックと数語交わして、また戻ってくる。


「ベッセル先生の下宿先は、あの村の中にあります。ちょうど我々もそちらに向かうところだったので、案内しましょう」

「それは、助かります」


 一応の警戒は下げたらしく、テティスの口調がやや丁寧になっている。

 貴族の子弟ということだしベッセル先生のお客らしいので、行商人などよりは上の扱いだ。


「なお、こちらはベルシュマン男爵のご次男のルートルフ様です」

「そうですか。ルートルフ様、お初にお目にかかります。アルノルト・フイヴェールツと申します」


 ザムの背に跨がる僕に向けて、アルノルトは丁寧な礼をとった。

 オオカミの背の上の赤子への礼とは、する方もされる方もなかなか経験できることではない気がする。


「それにしても、こちらオオカミですよね? 子どもを背に乗せて大人しくしているオオカミとは、相当に珍しいのではないですか」

「他に例を聞いたことはありませんね。しかしこのザムは躾が行き届いていて、危険なことはまったくないので、安心して下さい」

「そうですか」

「ただし、ルートルフ様に危害を加えようとする者に対しては、その限りではありません。まちがっても彼にそう見えるような行為はしないよう、注意願います」

「……肝に銘じます」


 村への道を、横並びになって行進する。左からアルノルト、テティス、僕らを乗せたザム、ベティーナの順だ。

 メンバー構成上、道行き中の客人の話し相手は、テティスがするしかない。


「私はこれほど北の地に来るのが初めてなのですが、やはり雪が多いのですね。南のロルツィング侯爵領を出たとたん道の積雪が段違いになって、驚きました」

「冬を過ごすのはわたしも初めてなのですけどね。住民の話では、二の月の初めとしてはこれでも例年より少ないのだそうです」

「そうなのですか。例年はこれ以上、と。なるほど、北の地の人たちの生活の苦労が想像されます」

「アルノルト殿は、ベッセル先生と同様にそのような分野の研究をされているのですか? 民衆の生活についてなどがご専門?」

「ええ、そうです。ただベッセル先輩がこのような地方の生活が専門なのに比べて、私は節操なく地方も都市部もひっくるめて、という感じなのですが」

「なるほど。それで、最近のベッセル先生の研究に大いに興味惹かれたわけですね。雪解けを待てないほどに」

「そういうことです」


 言って、アルノルトは口の端を緩めた。


「この領地に最近いろいろ新しい技術が生まれて、まだ他に知られたくないものがあるらしいこともお察ししています。外部からの訪問者はそういうことで警戒されるのでしょうが、予め知られていいことといけないことについて教えていただければ、不必要な詮索はいたしませんので、できれば信用いただければと。私の目的は先輩の最新の論文内容の実態を知りたいことと、あとできたらそれ以外も、という感じなのですが、部外秘事項についてはお断りいただければよけいな興味は抑えますので」

「なるほど」


 テティスの質問の意図を察して、先手を打ってきたということのようだ。

 ついと視線を上げて考えてから、テティスは続けた。


「そういう心積もりであれば、こちらもよけいな配慮をせずに済みそうです。ただその『知られていいこといけないこと』の区分については、わたしには判断がつきませんので。うちの執事かご長男のウォルフ様から沙汰のあるまで、お待ちいただければと思います」

「了解いたしました」


 笑顔で、大きく頷いている。

 なかなかに誠実そうな人懐こさを窺わせる顔だが、裏に何かあるのかないのか、人生経験の浅い僕には何とも判断のつかないところだ。


 通り過ぎようとしている脇に木立が迫るこの辺りは先日僕らが襲撃を受けた場所で、未だにここを通るたびテティスもベティーナも緊張を思い出す素振りを隠せないでいる。

 ふとテティスは顔を上げ、辺りを見回す様子を見せた。


「どうしました?」

「いや――何か気配を覚えた気がしたのですが……気のせいでしょう。わたしより索敵能力の高いザムも何も感じていないようだし」


 苦笑で、右脇のオオカミの頭を撫でる。

 確かに、周囲の殺気や敵意を感じとるザムの能力は、神がかりに思えるほどだ。そのザムが今は、平常運転の様子で足を運んでいる。

「おんまおんま、じゃむじゃむ」とはしゃぎ続けるカーリンの声が妨げになっているとも思えない。

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