第51話 赤ん坊、研究者と歩く
そんなやりとりをしているうち、村に入る。
ベッセル先生の下宿先を訪ねると、留守番の老婦が先生は作業場に行っている、と応えた。
テティスに指示されて、ベティーナが呼び出しに行く。
異様に盛んな煙と蒸気を吐き出している数軒の家屋が目に入っているのだろうが、先刻の断りを律儀に守ってだろう、アルノルトはことさらに視線を向けないようにしているようだ。
すぐに戻ってきたベティーナは、三人の男を伴っていた。ベッセル先生の他、居合わせていたらしい兄とウィクトルだ。
こちらを認めるなり、「アルノルト様?」と先生は声を上げた。
「いや先輩、『様』は困ります」アルノルトは、苦笑を返した。「実家の格が少し違う程度で。私は後輩として教えを請いに来ているのですから、そのようにお願いします」
「あ、ああ、そうだね、アルノルト……君。いやそれにしても、思いがけず嬉しい訪問だ。王都では、変わりなかったかい」
「こちらは相変わらずの生活なのですが。先日の先輩の論文を拝見して、居ても立ってもいられず、押しかけてしまいましたよ」
「それはなんとも――ああ、いや、そうだ――」
珍しく興奮気味にしどろもどろになりかけながら、先生は居合わす顔ぶれを見回した。
二人の再会の挨拶が終わるまでと、兄も傍で黙して待機しているところだ。
「そちらの人たちの紹介は済んでいるのだろうね。こちらは男爵のご長男ウォルフ様と、護衛のウィクトル殿です。ウォルフ様、こちらは私の後輩のアルノルト――」
「貧乏貴族の三男で、アルノルト・フイヴェールツと申します。お初にお目にかかります、ウォルフ様」
「ウォルフ・ベルシュマン、です」
少し迷った様子ながら、兄はとりあえずいくぶん丁寧口調になった。
相手が貴族の子弟で、先生の後輩であることを考慮したようだ。今し方アルノルトも言っていたように、学院生活や研究職のやりとりなどでは、家の格よりも先輩後輩の間柄の方が優先されるらしいので、そういう配慮が働いたのだろう。
「今言っていた先生の論文とは、ゴロイモに関するものですか?」
「ええ、そうです。いや研究者の中には、ゴロイモなどとるに足らない、と言う者もいるのですが。あれ、画期的な発見じゃないですか。もし今後国の大半が小麦の不作に見舞われることがあったとしても、国民が飢餓から救われる可能性がある、という」
「そうなんだよ、アルノルト君。それに、あの論文には書かなかったが、あの発見の発想はこのウォルフ様がもたらしてくださったんだ」
「それは、すごい」
目を輝かせて、アルノルトは兄に向き直った。
「すごいな。いや何よりも、領主のご子息が領民の食生活を慮ってお考えになった、ということなんですよね。なかなか聞かない話です」
「確かに。こんなお若いご子息はもちろん、アルノルト君の同年配やそれより上でも、そんな視点で領地経営に気を配ることができている者など、見たことがありませんね」
「そんな大げさな。そうだとしたら、要するに領主や子息がそこまで躍起にならなければならない貧乏領地が他にないというだけのことじゃないですか?」
「いや、それはまちがいではないかもしれませんが」アルノルトは苦笑で応えた。「貧乏かそうでないかに関わらず、領地の持つ可能性を突き詰めて向上を考える領主は希で、そんな現実がこの国の発展を妨げているのではないかと私は思っています。ベッセル先輩や私たちが地域の風土などといったものを研究対象にしているのは、そうした国の行く末に貢献できればという目的を見据えてのものですから。ウォルフ様は我々研究者に先んじて、その方向での実践を行ってみせてくださったのです」
「やはり、大げさですよ。私たちが行っていることは、とにかく死に物狂い、他になすすべなく綱渡りをしているようなものですから」
「いやあ、このゴロイモのことについても王都で話題の黒小麦パンやコロッケなるものについても、そんな綱渡りで絞り出しただけで発想できるものではないと思いますよ。おそらく他にも考えていることもあるのでしょう? 差し支えなければの範囲で構いませんので、そんな発想の源について、研究の参考にお聞かせ願えればと思います。微力ながら、私の知識でお役に立てることもあるかもしれませんし」
「はあ……」
数瞬の間、兄は若い研究者の顔を見つめていた。
ややしばらく考えて「先生」と声をかける。
「すみません、少しだけ相談に乗っていただけないですか」
「ああ、そういうことでしたら。私はしばらく離れていましょう」
自分に聞かせたくない内緒話と察したらしく、アルノルトは笑顔で離れていった。
テティスが横について、村についての説明をしているようだ。
ベッセル先生はこちらに寄ってきて、僕を乗せたまましゃがんでいるザムの横で、兄の話を聞く。
ちなみにカーリンは後ろ向きになって、ぱたぱたはためくザムの尻尾と夢中で戯れている。
先生に顔を寄せて、兄は声を落とした。
「先生を信用して伺うのですが。あのアルノルト殿の話に、まちがいはないでしょうか。こうした地方についての研究は、国の発展を願ってのもの。彼自身は特定の領地や商会などとの利害関係はないということで?」
「その点は、私が保証します。彼の目が向いているのは、国全体の利益です。むしろその『国全体』という視野に関しては、私よりしっかりしています」
「それにまちがいがなければ、意見を聞いてみたいことがあります。父上とも相談していて、今我々が進めていることについて、新しい段階を検討したいと思っているので。先生にもまだ話していないことがあります。合わせて、相談に乗っていただくことはできますか」
「それは構いません。ただ認識してもらいたいのは、私だけならともかく彼に話すということは、中央の研究職の者や王宮まで、情報が流れる可能性が出るということです。その点、覚悟を固めてください」
「実を言いますと、むしろそれは好都合なのです」
「ずいぶん、風向きが変わったのですね。そういうことであれば、私や彼の立場も知識も、お役に立てる部分はあると思いますよ」
「ありがとうございます。でしたらまず、アルノルト殿に製塩の作業場を見てもらいたいと思います」
「いいのですか?」
「ええ。秘密にする必要もかなりなくなってきたので」
声をかけると、アルノルトはにこにこと早足で寄ってきた。
「アルノルト殿のお申し出に甘えて、こちらの情報を公開した上で、相談に乗っていただければと思います。今まで外向きには秘密にしてきたこともあるのですが、状況が変わってその必要もあまりなくなってきました。ただ虫のいい言い分なのですが、まだ今のところは積極的に広めたくはない。もう少し経ったら効果を見て中央や王宮なども含めて広めたいものもあるので、そういう段になったら陰からでもいいのでご協力いただければと。本当に勝手な言い分なんですが」
「何だか大ごとめいてきましたね。ますます興味惹かれます。好奇心には勝てないので、ウォルフ様のご意向に従うと、誓いますよ」
「ありがとうございます。ではまず、あちらを見ていただきます」
先に立って歩き出し、兄は製塩の作業場へ向かった。
一同ぞろぞろと、その後に従う。
村人が大勢動き回る作業場で湯気の立ち昇るどろどろの液体を見て、アルノルトは目を丸くした。
「いったい何です、これは?」
「塩を作っています」
「塩って、こんな山の中で?」
森の中で塩水が採れるのだと説明すると、ますます驚愕の目が丸められる。
作業の大雑把な説明は、実際に参加しているベッセル先生が行った。
その間に、僕は不機嫌を装って「うーうー」と兄に両手を差し出した。
「ちょっと失礼します」と兄は僕を抱き上げ、あやしながら部屋の隅へ向かってくれる。
簡単な打ち合わせの後、元の場所へ戻った。
カーリンは居眠りを始めて、ベティーナに抱かれている。
そこの説明を終えて、次はクロアオソウの栽培小屋に向かった。
僕一人、ザムの背中の上。カーリンはベティーナの腕の中だ。
冬場に野菜が育てられていること、地熱と加護の『光』が利用されていることを聞いて、ますますアルノルトは呆然とした様子になっていた。
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