第52話 赤ん坊、話し合いに臨む 1

 栽培小屋の見学も終えて、先生の下宿に戻る。

 少し広い部屋が借りられるということだったので頼んで、一同テーブルを囲んだ。

 僕は兄の膝に乗せられ、カーリンは離れた椅子に座るベティーナの膝で熟睡の様子だ。

 二人の護衛とザムは、戸口近くに待機する。

 それから、兄は説明の続きをした。

 領民の食料事情改善のため、クロアオソウの栽培、ゴロイモの扱いの見直しなどをしたこと。

 借金返済のため、黒小麦パンとコロッケに加えて塩とセサミの販売を目指し、ようやく軌道に乗ってきていること。

 返済の目処が立ち、塩の生産元も噂に上るようになってきたので、そろそろ秘密にしておくのも限界と考えられているということ。


「塩とセサミって――」アルノルトは額に掌を当てて、呻いた。「確かどちらも、これまでほとんど独占で販売ルートができ上がっているはずじゃないですか」

「どちらも父がその独占ルートに相談して、一緒に販売に乗せてもらえる段取りをつけました」

「よく、そんなことが……」

「セサミの輸入業者は、価格に影響が出ないなら仕入れ量が増えることは歓迎ということでしたし。塩を生産しているベルネット公爵は、別な思惑があって受け入れてくださったようです」

「別な思惑?」

「国民の生活に必要な塩を独占生産しているのはよくない、ということです」


 ベッセル先生とアルノルトは、揃って目を瞠った。


「いや、それは確かに正論だが」

「それで自領が潤っている公爵が、それを言い出すか?」

「ええ。そしてうちの父も、それに賛同しました。そこで、ここからがお二方への相談なんですが。いやその前に、確認させていただきたいんですが」


 一呼吸置いて、兄は質問を口にした。

 さっき僕が耳打ちしておいた疑問だ。


「先ほどアルノルト殿は、自分たちの研究は国の行く末への貢献を考えてのもの、と言われましたが」

「確かに、言いました」

「こう言っては失礼ですけど、研究者の大義名分としては当たり前ととれるような言い回しをあそこで強調されているのが、少し気になりました。そんな国益のようなものを今特に強く考えるような事情が、もしかすると中央にはあるのでしょうか」

「ああ、なるほど」アルノルトはやや目を丸くして、頷いた。「よくそんな感覚、気がつきましたね。まだ大っぴらにするほど確たるものではないんですが、一部で囁かれている懸念があるんです」

「どういうことです」

「近隣国、特に西のダンスクですね、そちらがいろいろ特産品を開発して貿易の力をつけてきているのです。そういった特産品のあまりない我が国は、このままだと貿易赤字が膨らむ、つまり金が出ていくばかりで国力が弱っていく一方になるという説です」

「なるほど、そういうことですか」

「だから私の周囲の研究者仲間の間の意見として、国力をつける、それと他国へ売り出すことのできる特産品のようなものを探る、そういった点が急務と考えられているわけです」

「そうですか。そういうことなら、その方向での意見が伺えそうです」

「どういうことです?」

「まずさっきのベルネット公爵の考えも踏まえてなのですが、父と私は、塩、油、小麦、といった生活に欠かせない生産品の価格はもっと低くあるべきだと思っています。まずそうした点で国民の生活基盤を固めることが、国力をつけるための第一歩なのではないかと」

「それは確かに、そうでしょうが……」

「本当にそんな発想、当の生産地の領主から出るものではないですよ」先生も、大きく首を捻っている。「生活必需品だからこそ、高価格でも売れる。自領の寡占状態なら儲け放題だ、というのがふつうの発想です。本当にそれ、お父上も同意されていることですか?」

「年変わりの帰郷時に話をして、意見は一致しています。それにこれらの件はもともと息子の発想から出たことだから、ある程度はお前の判断で扱いを決めていいと言われています」

「うーーむ」


 腕を組む先生の横で、アルノルトも首を傾げて問いかけてきた。


「これらの件、と今言われていましたが。そうするとこの話、塩だけに限るわけではないのですか」

「ゴロイモの調理法、新しいパンの製法、クロアオソウの栽培方法、皆同じだと思いませんか。広く民間に普及すれば、国全体を豊かにできるという点で」

「いやまさか、それは嘘でしょう?」

「うまくすれば数年は莫大な利益を生むかもしれない知識を、損得抜きで広めようというのですか?」

「我が男爵家の総意として、ですね。とりあえず今の借金を返済する程度には利益を得たいが、それ以上の贅沢は望まない、ということになっています」

「あり得ないでしょう!」アルノルトの声が裏返った。「いやそれ本当に、ウォルフ様の理想、というだけじゃないんですか。本当にお父上も同意の上だと?」

「むしろ最初に父から出てきた意見なんです。ベルネット公爵とも意見が一致したそうですよ。王家から拝命した爵位を持つ以上、貴族の考えるべきは自分の家や領地だけを富ませることではなく国益、国民の生活を豊かにすることのはずだ、と」


 ぐう、とアルノルトの喉が妙な音を立てた。

 ベッセル先生の顔も、呆然と固まっている。


「いや、ベルネット公爵という方も一廉ひとかどの人物と聞いてはいましたが……」

「それ以上に、ベルシュマン男爵の発想の方が飛んでしまってますよ。公爵家の方はまだ、家の財政的にも領地の状況にしても余裕があるんでしょうが、男爵家はそうではないのでしょう?」

「それはそうですけど、借金さえなければ別に、ふつうに生活はできます。領民たちも、さっき作業場で見たでしょう。飢えさえしなければ、ただ身体を動かして働くことが嬉しい、という人たちなんです。それに、国全体が富むということは、回り回ってこの領地や男爵家にも利益になるはずなわけですから」


 アルノルトの意気込んだ問いに、兄は笑って応える。

「それはそうですが……」と若い研究者は、深い溜息をついた。


「前に話したとき父からその近隣国との貿易の話は出ていませんでしたが、当然頭にあったのだと思います。私も今伺って、ますます意を強くしました。父は王宮に勤めていて宰相とも意見を交わす機会が多いということで、これらの情報の広め方について相談して検討を進めているようです。そちらは任せるとして、この方針について学術的見地からどう思われるか、お二方の意見を伺いたかったのです」

「学術的……」

「今言ったようなことを全国に広めることができたら、国民の生活向上と貿易赤字が膨らむのを抑える、ですか、そういったことに役に立つでしょうか」

「国民の生活にいちばんありがたいのは、塩の価格でしょうね。次はパンの製法でしょうか。この二点はまちがいなく、生活向上につながるでしょう。ゴロイモはまだ全国的には出回ってさえいない地域が多いので、限定的ですね。クロアオソウの栽培はどれだけ他で通用するか、まったく見当がつきません。

 また、新しいパンは他国への輸出品としても通用するでしょう。日持ちの関係で製造場所と運送方法が鍵になりそうですが」

「そうですか。それならあえて広めるだけの意味はありそうですね」

「ですね」

「クロアオソウの栽培については、父が親しい他領で別の作物について試してもらうと言っていますので、その方針でよさそうですね」

「ですね……」アルノルトは、溜息混じりに言葉を継いだ。「本当に、父子ともに本気のようですねえ」

「もちろんです」


 毒気を抜かれたような二人の様子に、兄は笑いかけた。

 一息置いて、さらに続ける。


「ただ、ここまで偉そうなことを言ってからで申し訳ないんですが、あるいはこの一年の状況次第で話が変わることもあり得ますので、そのつもりでいてください」

「どういうことです?」

「この領地に、春以降危機が迫る可能性がありまして。森で野ウサギが大繁殖して、その被害で農作物が不作になったら、よそのことを考える余裕はなくなることになります」

「野ウサギ、ですか?」


 野ウサギの生息数が増加していること、オオカミの姿が消えているのが影響していると考えられることを、兄は説明した。

 これについてはベッセル先生が、前にも話していた野ウサギの繁殖力の強さについて補足する。

 聞いて、アルノルトは今までにも増して真剣な表情になった。


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