第142話 赤ん坊、誉め称える
そうして侍女たちの仕事ぶりを見て回って、一通り満足。
少し離れて執務部屋を眺め回していると、戸口が開いた。礼をして入室してきたヒルデが同じように室内を見回し、僕に向けてもう一度一礼する。
「畏れながらルートルフ様、覚えておいででしょうか」
「ん?」
「ルートルフ様は休養のためご実家にお戻り、と承ってございます」
「……あ」
「このような作業はクラウスや侍女たちに任せて、ルートルフ様にはお休み頂きたいと存じます」
「……ん」
白髪交りの茶髪の下で、初老の侍女頭の目つきがいつになく真剣になっている。
ほとんど強制的に、僕はその部屋を連れ出された。
自室での休養も信用できない、と居間に連れていかれ、長椅子に昼寝用の寝具等が運ばれて寝かされる。
すぐ下にザムが寝そべり、護衛二人が後ろに控える。メヒティルトには少し離れたテーブルで写本をさせる。
侍女頭の雷が落ちないようにとじっと動きを収めているうち、間もなく僕は眠りに沈んでいた。
目が覚めたのは、父が帰宅した動きのせいらしい。
王太子の誕生日宴に出席していた父は、正装のまま居間を覗き込んできた。
「おお目を覚ましていたかルートルフ、よく休んだか?」
「……ん」
当然後からクラウスやヒルデの報告を聞くのだろうが、ここは大人しく答えておく。
「うむ、少し顔色もよくなったようだな。着替えてすぐ戻るから、お前は大人しくしておれよ」
「ん」
言葉通り、父は慌ただしい勢いで戻ってきた。
貴族本来なら付き人の介助を受けて行うのだろう着替えも、完全無視したと思われる手早さだ。おそらく今頃側仕えは、脱ぎ散らかした衣類の整理に追われているのではないか。
気忙しく僕を抱き上げ、ソファに収まった膝上に落ち着ける。
「おつかれさま、ちーうえ」
「うむ」
「うたげ、どうだった」
「うむ、盛況だったな。もちろん目的や規模として当然なのだが、それにしても従来に比べて盛り上がりと秩序が一際だと感じられた」
「そなの」
「直近の通商会議の成果と、各領での製紙業稼働で景気が向上している実感のせいだろうな。今までなら一部に王家の動きをどこか冷ややかに見る向きもあったのだが、今回はそれがほとんど感じられなかったように思う」
「なるほろ」
「王太子殿下のご挨拶も堂々としたもので、かなりのところ諸侯に感銘を与えたようだしな。今後国を挙げて協力していこうという機運が見えてきた印象だ」
「ん」
製紙業導入による利益が目に見えてきているという理由はあるだろうが、それに合わせて王太子が反対派や他国への協力派の洗い出しと締めつけを進めてきた成果もあるようだ。
少なくとも今回の宴で、あからさまにその動きに反抗しようという貴族は窺えなかったらしい。
しかしこれも、下手をすると一時的な傾向に終わることもあり得る。
今後ある程度継続的に利益がもたらされる手応えがなければ、またぞろ他からの誘惑に心揺れる貴族が出ない保証もない。
製紙による利益は当分揺るがないだろうが、万が一のところを思うと、他の産業育成も模索していくべきなのだろう。
――などということを父と言い交わしていると、訪問者の報せがあった。
この日の報告と妹の連れ帰りのため、ヴァルターが帰途訪ねてきたものだ。
今の話題の関連でちょうどいいので、父の膝に乗ったまま報告を聞くことにする。
子爵の対面に招かれて恐縮しながら、文官は書付を取り出して報告した。
「カータとお伽噺本につきましては、用意した分を完売しました。予定通りパウリーネ王女殿下が侯爵ご息女の方々にご紹介くださったようで、そうした年頃のお子様がいらっしゃる上位貴族の方から順に挙ってお買い求めくださった状況です」
「ん」
一方で物語本の方は、用意した分の半分強程度の売れ行きだったという。
まあこれも、予想の範疇だ。
そもそも貴族や夫人の中で読書を趣味にする者など、第二妃以外にほぼいないのだから。
王太子の生母として当然宴に臨席していた妃も、御機嫌伺いに来た貴族と夫人たちに話を振ってくれていたようだが、学友予定の子女たちと交流の場を設けられた王女に比べると、その効果は限定的だったと思われる。
初等教育に役立つと謳われ王女との交誼に必需品と受け止められたものに比べて、こちらは純粋に個人的趣味に関するものという相違もあるだろう。
それでも物語本は今までにまったく存在しなかった貴族向けの文化的商品なのだから、そこそこ多数の興味を惹いたことはまちがいないらしい。
こちらについては今後、気長に流行の広がりを待つしかないのだろう。
この日の販売実績についての数値一覧をヴァルターから受け取り、後日マーカスと今後の検討を行うことにする。
その後二日間父の屋敷で身体を休めて週末、空の日の午前に商会小屋を訪ねた。
グイードたちとは久しぶりの顔合わせ、ほぼ三週間ぶりになる。それでも製紙指導行程の予定が変わって大幅に帰還が早まったため、この程度で済んだという結果だ。
「ぶじかえって、なにより。それから、このしょうかいへ、ようこそ」
「「「「ありがとうございます!」」」」
改めて出張業務を労い、新しい製紙材料発見を誉め称える。
四人とも暑い中力仕事途中で汗まみれの顔に、満面の笑みを湛えていた。
東孤児院の面々と護衛職の二人もかなり製紙作業に手馴れてきて品質も上がっているということで、激励を与える。
今後こちらの面子の半数は新しい素材の製紙に取り組ませる方向で、商会長と相談を進めている。
ウィラとイーアンの二人は、ほぼ印刷業専念に戻っている。注文が追いつかず予約待ち状態のカータとお伽噺本の増刷を進めているところだ。
なおカータのために、先日から赤インク印刷も実用化されている。一面への多色刷りはまだだが、赤一色のカード印刷はできているというわけだ。
それらに加えて昨日から、ナディーネが作成したカータルール集の印刷を始めている。
これらがある程度揃ったら、マーカスとアントンが貴族屋敷を御用聞きに回る活動を始めることになっている。
まずは宴の場でカータを購入した貴族邸を訪問して、ルール集を無料で献呈する。「今後カータと本の販売はヴィンクラー商会で承りますので、よろしくお願いいたします」という挨拶回りだ。
貴族の数は限られているのだから顧客数はそうそう劇的に増加を望めないので、購入実績のある客にカータの追加や新しいお伽噺本のお薦めを進めるわけだ。
これから十の月の学院入学時へ向けて、王女の学友になる予定の侯爵家を中心に、互いの話題確保のために新しいお伽噺本の購入が進むことが期待される。
「週明けにはそうした貴族邸訪問を始められるように、準備を進めているところです」
「ん、よろしく」
マーカスと諸々の打ち合わせをしてこの週の作業を終え、翌週の方針を固めておく。
父と話し合って、僕も週明けの風の日に王宮へ戻ることにした。
風の日の朝、父の出仕に合わせて馬車で王宮に入る。
ナディーネを執務室に残し、カティンカとメヒティルト、リーゼルは後宮の部屋へ向かわせる。一週間ほど留守にした私室の整備をしてもらうことになる。
警護として予定通りテティスとウィクトルが室内で傍に控え、ディーターとシャームエルが戸口外に立つ。
ナディーネに白湯をもらって一息ついてから、ヴァルターと打ち合わせを始めることにした。
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