第141話 赤ん坊、拳を握る
箱に収められているのは、ごく薄い茶がかかった色合いのものだった。
一枚摘まみ上げると、まちがいなく紙なのだが従来のものより薄くやや固みがある。手触りもいくぶんぼそぼそしているか。
つまりは茶色がかった外見と合わせて、明らかに現状のものより品質の悪い紙、ということになる。
何でこんなものを
――と、失望はしない。
顔を上げると、妙に愉快そうな商会長と目が合った。
「材料は、カーゾーという木の枝だそうです。グイードによると、ギーレン伯爵領の者が山の中から見つけてきてくれたということですが、そこそこ国内広く生育しているらしいと」
「ん」
「本来の製紙指導の傍ら、ずっと各地の者たちに訊いていたということですね。シロシマよりももっと繊維が強く
「うんうん」
「その末に、このカーゾーが見つかったということです。ご覧の通り、見た目は少し悪いのですが、繊維を解しやすい」
「うん」
「結果、これを使った紙なら、二日で紙漉きまで終われるということです」
「しゅごい!」
思わず、僕は拳を握っていた。
従来の製紙が三日かかっていたところ、これなら二日でできるというのだ。
多少品質が落ちても、その欠点を補って余りある成果だ。
というよりむしろ、品質は下がった方が都合がいい。
低級でも作業の手間が少なく、コストが下がるものを求めていたのだ。
これ、別にグイードにはっきり命じたものではない。
以前の作業中の雑談で「もっとしつはわるくても、じかんかからずつくれるざいりょう、あれば」と話していたことがあったのだ。「せんいかたくて、ほぐしやすいの、あったら」と。
そうしたら、改まった用途には合わなくても、もっと安くて気軽に使える紙を普及させることができる。
その、僕のぼやきに近い言葉を、グイードが覚えていたらしい。
それにしても。あの程度の僕の発言から、よくぞこれだけ条件に適うものを見つけてくれたものだ。
――うちの配下の孤児たち、マジ優秀!
初対面時、思わずイルジーを「天才」と評してしまったが、優秀なのはイルジーとホルストだけではなかった。ウィラとイーアンの技術も凄いし、残りの四人も黙々と僕の指示に従うだけではなく、期待以上に製紙技術を向上させていた。
――あの孤児院、いったいどんな教育をしているんだ?
本人たちの向上心があるのかもしれないが。もしかすると、院長の指導方針がとんでもなく凄いのかもしれない。
「調べたところ、カーゾーという材木は山中にかなり多く生育していて、これまで他に用途はなく、ほとんど伐採されていないようなのです。つまりうまく入手の道を作れば、シロシマよりもかなり安価な材料ということになりそうです」
「うん。それ、すすめて」
「畏まりました」
他にはこれまでも話し合ってきたことだが、本日の誕生会の結果如何で本の注文が殺到することが考えられるので、印刷製本業務の準備を進めることを確認する。
グイードたちに労いと称讃を伝えるように頼んで、マーカスを帰した。
昼食後も新しい紙の入った箱を傍に置いて飽きず眺めている僕に、ナディーネが笑いかけてきた。
「ルートルフ様、すっかりご機嫌ですね」
「ん。たいちょうも、もどったかんじ」
「よかったです」
邸内の仕事が落ち着いて、午後から侍女たちにはいつもの写本関係の職務に戻らせる。
それ用に用意してもらった部屋に一緒に移動していると、手が空いたらこちらを手伝ってほしいと頼んであったクラウスもすぐに現れた。
「くらうすとなでぃね、とくべつにんむ」
「はい」
「何でしょう」
ナディーネに鉛筆を用意させ、新しい紙の束を与えて、クラウスと並んで机に向かわせる。
そうして二人に命じたのは、カータのゲームルール集の作成だ。
今日の宴で、パウリーネ王女が貴族子女たちに本とカータを紹介する。しかしカータの使用法はそうそうすぐに理解されるものではなく、特にその親たちまで正確に伝わることは期待できないだろう。
というわけで、今後問い合わせが来たものに対してルール集を販売して、その周知を図りたいと思うのだ。
一通りのルールに関しては、ナディーネがいちばん理解している。しかしこの侍女は字を覚えてからまだひと月程度で、文章を作成した経験がほとんどない。
そのため、これまで報告書や簡易なマニュアルのようなものを自作した実績があるという執事に、その指導を頼んだのだ。
いろいろ文案を練るに当たって低品質の紙と鉛筆は好都合と思われるので、その使い勝手を試す意味もある。
初めての種類の作業にクラウスも興味を示して、熱心に侍女と相談を始めていた。
少し離れた机では、カティンカとリーゼルが絵の練習をしている。
リーゼルに木炭画の指導をしながら、カティンカ自身は鉛筆の描写をいろいろ試行しているところだ。
うまく作業が流れ出したことを確認していると、階下から呼び出しがあった。
テティスとメヒティルトを伴って、階段を降りる。
「ご無沙汰しております、ルートルフ様」
「ん」
立っていたのは、まだ旅装も解かないウィクトルだ。
領地から馬を走らせて着いたばかりということで、大男は額に汗を浮かべている。
「またルートルフ様の護衛に就かせていただけるということで、幸甚です」
「よろしく」
急ぎ汗を流して服装を改めた護衛を、自室に入れてさっそく打ち合わせとともに警護に就かせる。
詳しい説明はテティスに任せる。ここひと月ほどは離れていたがずっとともに仕事をしていて、気心の知れた関係だ。
「一通りの危難は去ったと思われるが、くれぐれも油断は禁物だ。今後はともかくも、二人でルートルフ様の傍を決して離れない、それが肝要になる」
「うむ、了解した」
以前二人がこの屋敷で警護をしていたときには領主一家全員が対象だったが、今回は僕一人を護ることになる。前はもっぱら部屋の出入口に立っている倣いだったところを、もっと対象の傍に立つようにしようという打ち合わせをしている。
さっそく侍女たちの作業部屋に移動する僕の両脇に、二人は並び立った。
「ザムも久しぶりだな。ルートルフ様を背に乗せた決して他では見られない姿も、改めて新鮮だ」
笑って、ウィクトルはオオカミの頭を撫でた。
「聞いているぞ、この
「うぉん」
語りかけられた内容を理解したわけではないだろうが、ザムは誇らしげに声を返した。
少なくともウィクトルを覚えていて、交誼を受け入れていることはまちがいないようだ。
作業部屋に入って、「何だ?」とウィクトルは目を丸くした。
「このような侍女の執務姿、見たことも聞いたこともないぞ」
「だろうな。しかしルートルフ様の元では、執務室でも後宮の部屋でも、これが日常だ」
「そうなのか」
テティスと囁き交わしながら、唸り声を漏らしている。
メヒティルトも加わって四人の侍女と執事が机に向かい、真剣に文字や絵を描いているのだ。通常の貴族邸で侍女が行う執務としては、考えられないだろう。
クラウスの傍に寄ると、愉快そうに顔を上げてきた。
「このナディーネは、文章作成の素質がありますよ。すでに三つの遊戯のルールを相談しながらまとめたのですが、今は独り遊びの分について私が口を出さずにまとめさせているところで、要領を掴んでうまく進めているようです」
「そう」
覗くとナディーネはそんな執事の声も耳に入っていないような真剣な様子で、紙の上に鉛筆を走らせたり、止めて考え込んだりをくり返している。
さっと読んだところしっかりまとめられた内容になっているようで、確かに指導の成果が活かされているらしい。
うん、と僕は頷いた。
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