第69話 赤ん坊、新製品を見せる 3

「いったいこれは何だ、ルートルフ!」

「まったくおなじの、なんまいでもつくれる」

「何だ? どんな魔法を使った?」

「こうする」


 言って、僕は壁際に立つウィラを手招きした。

 緊張の面持ちで寄ってきた少女は、横の机から片面真っ黒の板を一枚取り上げた。

 それを机に置き、改めて上面に刷毛でインクを塗る。続いて、その上に紙を一枚重ねる。その上から、木片を布で包んだ道具でよく擦る。

 ゆっくりと剥がすと、紙には鮮やかにさっきと同じ野ウサギの絵が描き出されていた。


「何と?」

「何だ、これは?」

「もくはんがいんさつ、という」

「何だ、どういうことだ?」


 興奮のまま、王太子は黒く塗られた木の板に手を伸ばした。

 手が汚れるのにも構わず持ち上げ、顔を寄せ、大きく開いた目で観察する。


「な――つまり――細い線のところだけを残して、板を彫りとっているわけか」

「ん」

「何と――よくもこんな、細かい作業を。それでこれを使えば、何枚でも同じ文字や絵が作れると?」

「ん」

「木版画印刷……?」


 呆然として、王太子は宰相と顔を見合わせた。

 思い返すとこの二人、さっきからこの反応をくり返すばっかりだ。


「つまり、この技術を使うと、同じ絵や書面などを、何枚でも作れると……」

「ほんも、つくれる」

「何?」


 壁際のナディーネに合図すると、脇の机から小さなものを運んできてくれた。

 さっきから見ている紙の半分の大きさで、二十ページほどの厚さに糸で閉じた冊子が三冊だ。

 中は、今も見たような挿絵と文章で、植物図鑑の一部が再現されている。

 それを一冊ずつ、王太子、宰相、ゲーオルクに手渡す。

 三人とも、しばらく絶句のままその紙面に見入っていた。


「こんなもの……同じ本が、何冊も作れると?」

「ん。このさんさつ、きのうから、いちにちはんで、できた」

「何と!」

「そこのふたり、さっきのはんぎ、ひとりいちまい、にこくくらいで、ほれる」

「一枚を二刻で? あの細かいのをか?」

「ん。いま、このよで、このふたりにしかできない」

「何と……」


 この日何度目かの絶句の顔で、王太子は壁際の子ども二人に視線を向けた。

 緊張に顔を引きつらせながら、ウィラとイーアンはやはりどこか誇らしげだ。


 実を言うと、今回のこの試みの中で僕にとっていちばん幸運に思えるのが、このウィラとイーアンとの出会いだった。

 製紙については、少なくとも黙々とこちらの指示に従ってくれる人材があれば、実現すると思われた。

 ただ必要な道具作りから始めなければならなかったので、それなりの木工技術は必要だ。そういう技術者が、赤ん坊の訳分からない指示に従って、失敗覚悟の試行錯誤作業に従事してくれるか、疑問。しかしそれも、最後の手段はこちらからの強権発動で何とかなるか、と思っていた。

 しかし、同時に実現を目指していた版画印刷の前に立ちはだかる障害は、到底そんなもので済まない。

 我が国の木工技能の高さを聞いて導入を検討し始めたわけだが、そもそも僕は、この国の木彫技術のレベルについて実際にはまったく知らない。それでも想像する限り、細かい文字版木を彫り上げる技術を持った職人が、これまでのキャリアを投げ出して、こっちの一見赤ん坊のお遊びとしか思えない試みにつき合ってくれるとは、到底思えない。

 そもそも版木作成が可能なのか、可能にしてもそんな人材を手に入れることができるのか。お先真っ暗な思いだったのだ。

 最悪は、当面、版画印刷にしても線の部分を彫り残して黒くする形は諦めて、逆に全面黒で線だけ白い形式で妥協するしかないか、まで思い詰めていた。

 そんな状況のところで、ウィラとイーアンの二人と出会うことができたのだ。


 最初は、ヴァルターの文字が書かれた板をそのまま、文字だけ残して他を彫りとる、という課題を与えた。かなりの苦労の末、二人はそれを実現してみせた。

 次には、カティンカの描いた線画を同様に彫らせた。難度を上げた挑戦だったが、先輩の助言と新しい道具の導入で、これも二人はなし遂げてくれた。

 ここまでくれば、技術的にはほぼ合格だ。あとはただ、精度と速度を上げる練習だけを重ねさせる。

 それにしてもつくづく、この二人はよく辛抱してここまでつき合ってくれたもの、と感心してしまう。

 他の仲間たちの作業に比べて、途中の達成感がほとんどないのだ。毎日作り上げるのは、意味の分からない『版木』という板だけ。これまで修行してきた彫り細工に比べると、まったく美しさも面白みもない、ただ彫った結果が見えるだけ、なのだ。

 僕としてもその成果を目に見えるようにしてやりたいのは山々なのだが、とにかく『版画』はその刷る対象の紙が完成しなければ、実体がまったく具現化されようがない。紙があって初めて活かされる技術なので、そちらの成功を待つしかなかったのだ。


 そのため、昨日完成品の紙を手に入れてからの三班の作業は、今までの鬱憤を晴らす勢いの大騒ぎになった。今まで彫り上げていた動植物画の版木を使って印刷をさせると、一枚刷り上がるたびに、侍女たちや二班の仲間たちも交えて、大歓声が飛び交った。

 続いての作業は、これもまた紙の完成待ちにしていたものだ。侍女たちにペンで字を書かせた紙を、水で濡らして裏返しに板に貼りつける。それを今までの技術で彫らせる。ここでは、メヒティルトの速くて美しい書写が、大いに役立った。

 この文字版木で刷り上げた結果には、子どもたち以上に侍女たちが大喜びしていた。自分たちが苦労してきた文字練習がどのように活かされるか、初めてその目で知ったのだ。

 ちなみに、以前からアイスラー商会に依頼していたインクの研究で、比較的この裏返しでも見やすいものと、版画印刷に適した粘度のものが開発されていたのも、大いに助けとなってくれた。

 昨日刷ったその印刷物の乾燥を待って、今日の午前にはみんなで大騒ぎしながらページ順を揃え、侍女たちが糸で綴じ、三冊の冊子を完成させた。六人の子どもたちと三人の侍女の共同作業の成果ということで、しばし全員でしんみりしてしまったものだ。

 僕の感慨としては、この八人の子どもたちと三人の侍女たちとの出会いの幸運を、つくづく感謝するばかりだ。


――ほんと、あの女護衛と黒幕に、心から感謝を捧げたいくらいだ。


「うむ、この紙も版画も、素晴らしい成果だ。皆、でかしたぞ」


 王太子の宣言に、僕が許可を出すと、子どもたちは大きな歓声を上げて抱き合っていた。

 後ろから駆け寄ったホルストとイルジーも加わって、狭い小屋の中が完全なお祭り騒ぎだ。

 苦笑して、大人たちは外に出ていく。


 しかし小屋を出てすぐ、置かれていた板の上に、王太子と宰相は座り込んでしまっていた。

 ゲーオルクは立ったままだが、何処か目が虚ろになっている。

 示し合わせたように首を振り、ふうう、と息をつく。


「ここの作業がこれほどに大きな意味を持つとは思わなかったぞ、ルートルフ」

「まったく。あの荷車の完成だけで十分満足だったってのに、連日でそれ以上のものを見せられるなど、予想できるはずもねえ」

「それは、ども」

「陛下も、昨日荷車の成果を報告したところ、大いにお喜びだったが。この件をお知らせしたら、腰を抜かされるかもしれぬ」

「はあ。あ、そだ、ばるた」


 ヴァルターに命じて、小屋の中から完成品の紙を百枚ほど持ってきてもらった。

 陛下への献上と、ここにいる三人の試供品として、渡しておく。

 それとさっき渡した冊子を持って、宰相は早速報告に上がるという。

「よろしく」と頼んで、三人を見送った。


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