第70話 赤ん坊、完成を祝う
あとは八人の子どもたちに作業後の片づけを命じ、今日はこれで上がるように言い渡す。
ヴァルターに用意させたこの日の日当は、いつもの五倍の金額を入れてある。新製品の完成祝いだから、今日は孤児院の仲間たちと祝賀を催すようにと伝えると、また大歓声が上がった。
終業の挨拶を交わすや、みんな待ちきれない勢いで駆け出していった。
明日から数日にわたって、ホルストとイルジーは工房で荷車量産の指導と自分たちの修行をすることになっている。
それでもその生産が落ち着いたら、週の半分を工房、もう半分をこちらの作業場に通うことにして、修行の傍ら新製品の開発を目指す予定にした。まだ工房の正式職員ではないので、それ以上生産作業に加わることはないのだ。
ラグナも同様に、ここへ通って新製品開発の協議に加わりたいという。これは鉄工工房の肝煎りで、要は今回のような儲け話を逃がさないようにという上からの命令でもあるそうだ。
残る六人は今まで通り毎日ここへ来て、紙と印刷物の増産に励む。
ただ、まちがいなく近いうち、役所や商会や工房などから人が派遣されてきて、製紙や版画の指導をすることになるはずだ。
六人には「ルートルフ流製紙術」「ルートルフ流版画術」の開祖としてしっかり指導に当たるよう、今から申し渡してある。
僕としては、今回日の目を見た新製品群の普及については、宰相父子たちに丸投げだ。しばらくは侍女たちとともに、印刷物の増産、具体的には本作りに関わりたいと思っている。
――そう、思うようにはさせてもらえないだろうけど。
とにかくもこの日、まだ日が傾き出した午後の七刻くらいだろうが、やるべきことは終えた思いで、執務室への帰途についた。
執務棟に入るところで、カティンカに調理室への伝言を頼む。
執務室でそれぞれ自分の席に着くと、全員ぼうっと脱力の様子になっていた。祭りの後の空虚さ、とでもいうか。全力を出し切った後の冷めやらない興奮の名残を何処に向けていいか分からない、といった感覚だ。
遅れて入ってきたカティンカも、同僚二人の間の席で同じ表情になっている。この三人にとって、昨日からの子どもたちとの共同作業は、生まれて初めてと言っていいほどの刺激的な活動だったという。
「楽しかったねえ」
「王太子殿下に褒めていただいて、夢のようだったですう」
「本当に、ねえ。でもヴァルターさん、さっきの話、本当に本当なんですか? あの紙と版画、歴史を変える発明って」
ナディーネの問いに、ヴァルターさえ力の入らない様子で顔を上げた。
ややぼんやりした笑いで、頷きを返す。
「さっきの話で、大袈裟でなくまちがいのないところだと思いますよ。むしろまだ控えめに言っているというか、この発明で、もっと思いがけないところまで影響が生まれても何ら不思議はないでしょう。少なくともさっき殿下たちが仰っていたように、今の我が国の立場を大きく上げる可能性をもたらしたことは、まちがいないです」
「……すごいです」
「本当に、ルートルフ様はすごいですよ。この二週間ほど、私たちも一緒になってやってきたこと、ほとんどすべてが今日の成果に結びついていたわけですものね」
「ぜんぶ、みんなのおかげ」
机に肘をついた手で頬を覆って、僕もぼんやり応える。
孤児たちの従順な頑張りは、もちろんだが。
ヴァルターの字のうまさ、ナディーネの文字練習への食いつき、カティンカとメヒティルトの絵と文字、どれが欠けても今日の成果にはならなかったのだ。
製紙も版画も、絵や字を書くことも、僕自身には何もできない。書く字一つさえ、慣れた者でやっと読みとれるかどうかという現状なのだ。
「ルートルフ様がずっと、侍女たちに文字の練習をさせることに拘っていた、その意味がようやく分かりました」
「きょう、だけじゃない。これからずっと、もっと、いみをもつ」
「そうですか――いや、そうですね。これからもっと紙が普及したら、字と絵を使った記録と、情報伝達が必ず活発になります。これからはますます、字の読み書きができる者や絵を描ける者の重要度が増すことになるでしょうね」
「ん」
「侍女の資格としても、きっとこれから、絵ゃ文字を書けることは重く扱われることになると思いますよ」
「すごいです。そんなすごいこと、ルートルフ様は、してくださったんですね」
ナディーネが、瞳を輝かせている。
隣の二人も、同様。いや、カティンカとメヒティルトの方が、さらにその思いは強いかもしれない。
ほぼ文字通り、絵や字以外取り柄がないとして、侍女の中で軽んじられていた二人なのだ。僕にとっては、これ以上有能な人材は望めないほどなのだけど。
そんな、妙に力の入らない会話をしていると、ドアにノックの音がした。
調理見習いが来ている、と護衛の報告だ。さっきカティンカに「頼んであったもの、用意して」と伝言してもらったものだろう。
招き入れると、クヌートは大きな箱と瓶のようなものを抱えて入ってきた。
ゲーオルクや王太子がいないときに調理見習いの配達があるのは初めてなので、文官も侍女も訳分からない面持ちになっている。
そこへ、僕は言い渡した。
「きょうのおいわい、みんなでしよう」
クヌートが箱から出してきたのは、皿にそれぞれ載せられた厚い円盤型の焼き物だ。
ニワトリの玉子をよく泡立てたものに小麦粉とミズアメを加えて、ふっくら焼き上げてもらったパンケーキ。上からさらに、ミズアメと果物を使ったソースがかけられている。
この日のために、数日前クヌートにレシピを渡して研究させていたものだ。
それぞれの席に皿が配られ、テティスの分を応接テーブルに置き、もう五皿余る。
「くぬとも、そこでいっしょにたべて」
「あ、はい、ありがとうございます」
ここにいる全員の協力が、今日の成果だ。
僕の主目的は製紙の実現だったわけだが、荷車と新素材調理の成果が継続的になければ、あの小屋の中の作業を雑音から遮断して続けることはできなかった。
そういう意味で、クヌートも立派な協力者だと考えている。
戸口外の護衛二人にも、後でこのケーキはお裾分けするつもりだ。
残り二つの菓子はヴァルターの妹弟の土産にするようにと言うと、恐縮の様子で感謝された。
運ばれてきた瓶の中身はリンゴジュースで、メヒティルトが張り切ってコップを用意し、給仕して回っている。
「じゃあ、しごとのせいこうを、いわって。みんな、おつかれさま」
「「「「「「お疲れ様でしたーー」」」」」」
みんな笑顔で、ジュースで乾杯。
うきうきで、フォークを手に取る。
「甘ーーい」
「すごい、ふわふわですう」
「こんなお菓子、初めてです」
甘い菓子は少女たちに好評で、三人とも蕩けるような笑顔になっている。
ヴァルターやテティスも「これなら、売り物にもできますね」と感心している。
「ん、じょうでき。さいこう」
「ありがとうございます」
柔らかな焼き上がりは、僕の口にも入れることができた。
ほどよい甘さが口いっぱいに広がる、幸せの味だ。
大好評で、クヌートも上気した顔になっている。
冗談半分ながら、これはもったいないので今後僕の許可なく作らないように、殿下に求められても断るように、と言うと、困惑顔ながら了承していた。
いつにない笑い声が飛び交い。
侍女たちは持ち出してきた動物絵の版画を広げて、出来を評し合っている。
自慢混じりに見せられて、調理見習いもしきりと感心の様子だ。
ヴァルターもテティスも、穏やかな笑い顔。
足元では、ザムもクヌートのお土産の骨をがしがし囓っている。
安心して、特に何も考えることもなく。
いつか、かくりと僕の首は傾いていた。
***
私事ですが、別の仕事が少し忙しくなってきました。
応援してくださっている方々には申し訳ありませんが、今後の更新についてはしばらく不定期とさせていただきます。
できましたら、気長にお待ちいただけると幸いです。
感想や評価をいただけたら励みになると思いますので、よろしくお願いいたします。
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