第71話 赤ん坊、作業を説明させる
目を覚ますと、自分のベッドの中だった。
閉じた窓の隙間が、明るくなっている。いつも通りの、自分の部屋で迎える朝、と考えていいようだ。
しかし。
――うーむ……。
つらつら考えて。
あの、パンケーキを食べた宴、以降の記憶がない。
とすると僕は、あそこで寝落ちして、そのまま朝まで眠り続けていた、ということになるのか。
半日以上、一度も目覚めず、寝続け。
通常の赤ん坊として考えても、異常な気がする。
何だかいろいろ、取り返しのつかないことをしたみたいな思いと、まあいいやという諦めめいたものが、頭の中で溶け蠢く。
とろとろと考え巡らせていると、ノックの音に続いて扉が開いた。
「お早うございまーす」
にこにこ笑顔で、メヒティルトが入ってくる。
何とも、いつも笑顔が標準装備の侍女なのだ。たいしたことがない中でも、何かしら楽しいことを見つけることが得意、といったような。
比べてみると、あくまで比較的、という程度ではあるけど、やや悲観的な思考が多いカティンカ、現実的なナディーネ、楽観的なメヒティルト、という感じを受ける。
「ルートルフ様、お目覚めですかあ。今日もすごいいい天気ですよお」
「ん。おはよ」
「今日も暑くなりそうですから、肌触りのいいお召し物がいいですね」
「ん」
出してくれた服に、着替える。
もう侍女三人とも慣れてくれて、とりあえずの着替えは自分一人でするのを見守ってくれる。途中苦労するようなら手を貸してくれ、最後のボタンかけや全体の整えは必ず確認される。
そうしてからベッドの縁に足を出すと、下からのそりとザムが背を持ち上げた。
いつも通りそこに跨がって、居間へと移動する。
ぱたぱた動き回っていたナディーネが、心配そうな顔を向けてきた。
「お加減はよろしいですか、ルートルフ様? 執務室でお休みになって、そのままお目覚めにならないっていうの、初めてです。よほどお疲れだったのではないかと」
「ん。ほっとしたせいかも」
「気づかないうちに、疲労が溜まっていたのではないかと思いますよ」
テティスも寄ってきて、真顔で覗き込んでくる。
その掌が額に当てられて、くすぐったさに僕は身をすくめた。
「本当に何処か、不調はありませんか」
「ん。よくねたから、だいじょぶ」
「それならいいのですが」
確かに、疲労が蓄積していたということにまちがいはないのだろう。
裏庭の作業が始まってからずっと、その進捗と秘密保持に気を遣い続けていたのだ。
さらに一昨日に紙の完成を見てからは僕自身も興奮を抑えられず、孤児たちや侍女たちと一緒に印刷や製本で大騒ぎしていた。
それに加えて昨日は、いつもに比べて会話量が倍増していたのではないかと思われる。
そのすべてが落着して、ケーキを食べながら安堵を噛みしめ、一気に疲労が込み上げてきた、ということのような気がする。
しかしそれも、十分な睡眠でほぼ消え去ったという体感だ。
そう言うと、護衛も侍女たちもほっと安堵の顔になっていた。
執務室では、同じ説明をヴァルターにもすることになった。
昨日あのまま寝落ちして、当然文官にも心配を与えていたのだ。
納得を得て、この日の業務の打ち合わせ。
王太子と宰相から、製紙の件で大手商会主をこの日呼び出す予定、と連絡があったそうだ。うまく話がまとまれば、製紙作業を実際に見に行く、という。
また、早急に各領主に触れを回し、何名かずつ面談して詳細を説明、製紙場を興す動きをとらせる。その説明の場にルートルフも臨席するように、という指示があった。
あまりそうした場には出たくないのだが、ある程度以上の説明は僕にしかできない部分があるのだから、仕方ないと納得するしかない。
「あまりルートルフ様がお疲れにならないようにしたいのですが」
「しばらくは、しかたない」
この日、ホルストとイルジーは工房へ行っている。
二班と三班の面々には、それぞれ継続する作業を指示してある。
印刷物のさしあたっての予定として、図書館で数冊に分かれていた植物図鑑を、一冊に統合したものを目指している。
一両日中にこれを数十冊作り上げ、各領主に贈呈して製紙の説明に使おうと企図しているのだ。
従来の図鑑の記述に加え、最近見つけた食用になる植物の紹介、キマメやナガムギなどの調理法といったページを増やして、各領で重宝されるようにしようと思う。製紙の有意性と同時に書物の内容も意義あるものとして伝えれば、受けとる側も得をした気分で協力的になってくれるのではないか、という下心だ。
そうした文章と挿絵の筆記を、執務室で文官と侍女四名に進めさせていく。
昼前に、王太子から連絡が入った。
製紙業に協力予定の商会会長に、作業を見せたいということだ。
王太子や宰相にもまだ作業工程を見せていないのだから、説明には僕が参加する必要がある。実際の口上はヴァルターに任せるのだけれど。
ということで、作業場へ移動。文官と護衛の同行は当然だが、侍女はナディーネだけを連れて、残る二人は執務室で筆記を続けさせることにした。
なお、ザムを一般人に近づけるのもまずいので、ディーターに紐を持たせて遠巻きに待機することにし、僕は久しぶりに赤ん坊車をナディーネに押してもらう。
小屋に入ると、六人の子どもたちが元気に作業していた。
いつもにも増して張りのある声の挨拶に続いて、マーシャとエフレムが「孤児院のお祝い、楽しかったの」と報告してくれる。生まれて初めての豪華な肉料理の味が忘れられない、先生たちも小さな子どもたちも大喜びだった、という。
オリファーという商会会長は部下を一名伴って、貴族に見劣りしない服装をした恰幅のいい中年男性だった。見た目、エドモントのアイスラー商会より大店なのだろうと思わせる。
ヴァルターの事前の説明によると、農産物や木工品を商っていて、全国数箇所に支店を持つこの国最大級の商会なのだそうだ。国の方針に従わせられる限り、各領地に製紙場を広げる事業に相応しいと言えるだろう。
会長の案内は宰相とその秘書がしているようだが、王太子もそこに同行している。実際の製紙作業を見てみたいという本人の希望だという。
この日の二班の作業はほとんど紙漉きの段階ばかりになっているので、その前工程についてはヴァルターとグイードに簡単に説明させるだけにする。
一応最初に木の枝を煮る作業は外の竈でひっきりなしに続けることにしたので、そこの見学から始める。
もうもうと湯気の立つ鍋を覗いて、一同は「これがあの紙になるのか?」と何とも微妙な顔になっていた。
「これを半日くらい、皮が軟らかくなるまで煮る、です」
お偉方を前にしても、意外とグイードは臆する様子もなく話をする。
「この後、水に入れて、皮をむいて、水の中で
ヴァルターの補足は受けながらも、そんな要点を押さえた説明を続ける。
その後一同を小屋の中に案内し、木の繊維を叩いて解す作業を簡単に見せた後、残る子どもたちが続けている紙漉きの現場に近づいた。
木の枠の間に竹ひごを張った道具で水の中の白い繊維をすくい、揺すって薄く均等にする作業を、全員が感心して見ていた。
「あとはこれを乾かして、四つに切り分けたら、でき上がりです」
「この辺はもっと慣れたり道具を工夫したりで、効率を上げて品質を揃えるようにできる余地があるようです」
ヴァルターの補足説明に、皆が頷いている。
見ると、オリファーが納得の顔で宰相と頷き合っていた。
「確かに、子どもたちでもできる作業なのですな。担当の職人を選んでここで教えてもらえば、すぐに生産に入れそうです」
「うむ、早速明日からその動きに入ってもらいたい。王都内で二箇所は作業場を作れそうだということだったな?」
「はい、すぐに使える場所があります。二箇所で作業員二十人程度を目処に、始めていこうと考えます」
「うむ、任せた」
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