第6話 赤ん坊、子守りをする
はああ、と誰かが溜息をついた。
見ると、編み物をしていた母とイズベルガが、苦笑の顔を見合わせている。
「本当に、ルートルフの傍しか駄目みたいねえ」
「特にお眠のときは、何か抱きつくものがないと駄目という赤子は多いですし。しばらく慣れるまではしかたないかもしれませんね」
二人の会話に、ウェスタとベティーナも同意の頷きをしている。
――たいへんなのは、僕なんだけどなあ……。
やっぱりこの辺、匂いつきの毛布扱い、という気がする。
慣れない状況で身じろぎもできず、僕はただカーリンが積み木をする様子を傍で眺めているしかなかった。
ややしばらくして、「もう大丈夫でしょうか」とベティーナが足音をひそめて近づいてきた。
ぐっすり眠り込んだ態のミリッツァを抱き上げて、そっとソファに横たえる。厚手の布を、その上にかけてやる。
喜ばしいことに、すうすうと穏やかな寝息が続いている。
ようやく安堵の息をついて。僕は凝り固まった身体を曲げ伸ばしした。
少しは僕も慰めをもらってもいいだろう。思って、よっこらと立ち上がる。
のたのたとソファで読書中の兄の方へ歩き出すと、力尽きそうなところでベティーナが抱き留めてくれた。
ひょいと抱え上げ、兄の膝の上へ。兄は少し前を空けて、苦笑顔で迎えてくれた。
「ご苦労さん、ルート」
やや荒々しく、頭を撫でられる。
ゆったり寛いで、僕はテーブルの上の木板の本を覗き込んだ。
ベッセル先生が貸してくれた、全国の植物についての本だ。
兄の膝に揺すられながら、一緒に読み始める。
しかし、そんな平和な時間もわずかだった。
半刻も経たないうちに、一瞬「うく、うく」と引きつけのような声が漏れたかと思うと、
「んぎゃあああーーーーー」
と、ソファのミリッツァが泣き叫び出したのだ。
たちまち火がついたように、息もつかせず踏ん張り声が続く。
「わ、わ、わ――はいはいはい――」
ウェスタと一緒に隣のキッチンに夕食の手伝いに行っていたベティーナが、慌てて駆け戻ってきた。
すぐに抱き上げ、揺すりあやす。おむつを確かめても異状はないらしい。
「んぎゃ、ぎゃ、ぎゃあーー」
それでも、いくらあやしても、張り上げ声は止まない。
全身を捻り、両足を振り蹴り、何かを求めて手を伸ばす。
はああ、と、今度は一同が同様に嘆息した。
諦め混じりの視線が、一つに集まる。
つまりは、僕の顔に。
「しかたないな。ルートの出番だ」
諦めのような、からかいのような。何とも言えない苦笑の顔で、兄は僕を抱き上げて、今までミリッツァが寝せられていたソファに座らせた。
その隣に置かれると、たちまちミリッツァは僕の腰に抱きついてくる。
ぐしゅぐしゅと啜り上げ、涙顔を擦りつけ。
やがてその息遣いが穏やかになっていく。
呆れるほどあっさりと、それはそのまま「くうくう」という寝息に収まっていた。
「はああーー」
今度の溜息も、全員一斉のように思われた。
――いちばん溜息つきたいのは、僕なんだけど……。
情けない顔に、兄だけが慰めの頷きを送ってくれた。
しかたない。
膝にもたれかかる妹の頭を撫でながら。
他にどうしようもなく、僕は付き合いのお昼寝に沈んでいった。
それでも、眠っていたのは一刻程度だったらしい。半端な眠りを目覚めさせたのは、ぱたぱた胸元を叩く小さな手だった。
昼寝に満足したらしい妹の、ご機嫌な顔が間近に覗き込んでいる。
見回すと、母とイズベルガは編み物、兄は読書、カーリンは籠の中で熟睡の様子。ベティーナとウェスタの姿はなく、キッチンからいい匂いが漂ってきている。
つまりのところ、僕以外の全員、いつも通りの平和な日常で。
喜ばしい限り、だ。
いつもなら僕は、兄と一緒に読書か、兄の部屋でお喋りか、それなりに有意義な時間を過ごしているところなのだけれど。
ミリッツァのペースで昼寝に付き合い、中途で目覚めさせられ、何だか外歩きの疲れがとれたようなどこかに沈殿したような、ふわふわ訳分からない感覚だけど。まあ、家族の平和に貢献できたということなら、満足しておくべきなのだろう。
思いながらミリッツァの手を握り、振り振りしてやる。
きゃっきゃと喜声を上げ、のしかかる小さな身体が弾みよじれる。
夕食の報せが届くまで、ひとしきりそんなたわいない戯れに興じていた。
ほとんど予想し諦めていたこと、だけど。
朝から準備していた新しい子ども部屋に、ミリッツァを寝かしつけることはできなかった。
それどころか、夜になってうつらうつらし始めたところをベティーナがそっと運び出そうとするだけで、半分眠ったままやはり全身をばたつかせて泣き始めるのだ。
結局のところ、また対処法は一つしかなかった。
いつもの就寝時刻より少し早く、僕は布団に潜らされ、左脇に小さな温みがぴったり寄り添わされていた。
すぐにくうくうと安らかな息を聞かせるミリッツァに配慮して、そっと足音を忍ばせてベティーナは布団を運び込んできた。床に敷いて、子守りはそこに休むのだという。
イズベルガと話していたことからすると、僕が生まれたばかりの頃もベティーナはこうして寝室に待機していたらしい。夜泣きにすぐ対処して、他の家人に影響を与えないようにするためだ。
僕は生後四五ヶ月頃からまったく夜泣きをしなくなったらしいが、ミリッツァについてはまだまったく分からない。どんな事態にも対処できるように、という備えらしい。
夜中。時刻は判然としないけれど、やはりミリッツァの夜泣きは始まった。
不穏な震えに目覚めさせられ、「ふお、ふおっ」という呻きを耳元近くに聞き。
抱き留めようと回した手も、間に合わなかった。
「ふええええーーー」
全身を震わせて、張り上げ声が漏れ出していた。
即座にがばりと起き上がり、ベティーナが布団の上から撫でてきた。
「どうしましたあ? 大丈夫ですよ、ミリッツァ様、いい子いい子」
「ふええええーーー」
「怖くないですよお、ルート様もベティーナもいますよお」
布団の上から、ぽんぽん、なでなで。
僕も向き直って、しっかり抱きしめてやる。
ぐじゅぐじゅ胸元に涙顔を擦りつけて、間もなく泣き声は静まっていった。
「ふん……ぐすう……」
「ミリッツァ様、いい子。ルート様もいい子ですう」
ぽんぽん、なでなで。
やがてゆっくり、力が抜け、穏やかな寝息になっていく。
その静かなリズムを聴きながら、僕も眠りに戻っていく。
そんな夜中の目覚めは、さらに三度続いた。
二度目には撫で宥めだけでは収まらず、ベティーナはミリッツァを抱き起こして、小鉢に用意していた乳を飲ませていた。
飲みながらも泣き止まなかった妹は、それでもベッドに戻されると僕に抱きついて寝入っていった。
四度目には、ぐずり泣きの予兆だけで僕は目覚めさせられていた。
反射的に抱きしめると、「ぐうう」と胸元に呻きを埋め、すぐにミリッツァは泣き声を収めた。
ぐす、ぐす、と何度かしゃくりが続いたが、やがて穏やかな息遣いに戻っていく。
今度はベティーナを起こさずに済んだようだ。
窓の外はわずかに白みかけてきているようだが、起きるにはまだ早い。
とろとろ思いを漂わせながら、僕も眠りに戻っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます