第5話 赤ん坊、遊ぶ
そこへ、ヘンリックが入室してきた。
何か、母に書類内容の確認らしい。その用事はすぐに済んだようだが、母は執事に軽く溜息をついてみせた。
「子どもが増えたのだから、本当なら子守りや護衛を増やすべきなのでしょうけど」
「今は少し、余裕がありませんな」
「そうなんでしょうねえ」
その辺の事情は、兄や僕にも伝わっていた。
ベルシュマン男爵家の財政事情、借金返済の目処は立ったが、それ以上余裕を持つには至っていないのだ。
塩やセサミ、コロッケや黒小麦パンの販売など、うまく立ち回れば桁違いの利益を得ることができたかもしれない。しかしその点では、家の者一同の総意の上、国中に利益を還元する方向で収めていた。
それでも当家の財政の上では、少し余裕が持てる程度には利益を上げていた、はずなのだ。
計算違いだったのは、新しい領地の付与、だった。
旧ディミタル男爵領の三分の一程度を賜ったわけだが、その土地、こちら従来の領地とほとんど状況は変わらない。
白小麦の収穫は、国税に充てるのにも不足する程度。その他の作物で不足分を補い、さらにその上、ディミタル男爵はかなり高率の領税を課していた。
そのため、領民は疲弊しきって、農作業にも力が入らない現状だという。
すぐに餓死者が出るほどではなさそうなだけ、少し前のこちらの状況よりはいいのかもしれない。また、こちらで行ったと同様に作物の付加価値を高める活動を取り入れれば、改善は期待できそうだ。
しかし当面の問題として、その地ではこちらと同水準に領税を下げ、さらに何らかの設備投資を行う必要が出てきている。つまりここしばらく男爵家としては、収入増は見込めず支出がかさむ覚悟を固めなければならない。
何とかその状況が今年度だけで済むことを願うばかりだ。
すっかり仲よくなったミリッツァとカーリンは、両手を握り合ってきゃいきゃいとはしゃいでいる。
午後からは赤ん坊三人を連れて散歩に出よう、と兄は母やベティーナと話している。
ミリッツァもカーリンも、僕の二の舞にならないようにできるだけ日光浴を兼ねた散歩をさせたいのだ。
雪が溶けたばかりでまだ寒いので、厳重に厚着をして家を出た。
ザムの背中、僕の前にはミリッツァが抱かれ、背中にはカーリンがへばりついている。
両脇には兄とベティーナ。後ろに護衛のテティスとウィクトルが従う。
行く先はいつものように、村の中だ。
製塩の作業場は相変わらずの稼働状況だが、村人たちで当番を決めて、一度の作業人数は減らしている。当番を外れた者たちは、畑仕事だ。
作業場に顔を出すと、汗だくの人たちが手は止めずに「ウォルフ様だ」と礼をしてきた。
「あれ、今日はお子様の数が多いんじゃないですかね?」
「ああ、妹のミリッツァだ。よろしく頼む」
「妹様? え、あれ?」
いかにも噂好きそうな女たちが、困惑で顔を見合わせている。
まだ一歳を過ぎたばかりの僕の下に妹がいるなど聞いていないのだから、当然の反応だ。
ここはあっさりと事情を説明しておこうとヘンリックたちとも打ち合わせしていたので、兄は事もなげに答えた。
「父上の王都の側室の子どもでな。これからはここで育てることになった」
「はああ、そうなんですかね」
「やっぱり都よりこっちの方が、子育てにはいいさねえ」
それだけで納得して、皆笑顔になっている。
これで、すぐ村中に話は行き渡るはずだ。
次には、日中小さな子どもを集めている託児小屋に寄る。
幼児六人と乳児二人を少し年長の少女一人で見ている家屋だが、ちょうど作業の休憩らしい母親が二人、乳児を抱いていた。
「わあ、ザムだ」
「ルートルフ様」
わらわらと子どもが寄ってくるが、言い聞かせてあるのでオオカミに触ることはしない。
ぐるり囲んで僕らを覗き込み、話しかけてくる。
ここでもカーリンは得意げに両手足をぱたぱたさせているが、ミリッツァは怯えたように僕の胸元で縮こまってしまっていた。
赤ん坊を抱いた母親が、兄に向けて大きく腰を折ってきた。
「ウォルフ様、来月はこの子たちも教会に連れていっていただけるそうで」
「ありがとうございます」
「ああ、周年式だな」
「うちは二人目なんですけど、去年の秋にはとうていこの子は冬を越せないんじゃないかと諦めかけてたです。無事周年を迎えられるなんて夢のようで、みんなウォルフ様のお陰と感謝してるです」
「うちもです」
「それは、村人たちみんなの頑張りのお陰だ」
笑って、兄は二人の赤ん坊を覗き込む。
「うん、元気だ。うちのルートより大きいくらいだな」と頬をつつくと、赤ん坊は「きゃあ」と笑い声を上げていた。
それにしても。
やはり村人たちはあの秋頃、それだけ悲壮感を覚えていたのだな、とこうして聞いて改めて思う。
食料事情改善が間に合わなければ、確かに体力のない乳児から命を落としていったのかもしれない。
ちなみに『周年式』というのは、一歳を迎えた子どもを教会に連れていく行事だ。
教会で神官から祝福を受け、加護を確かめる。領主の側としては、簡単な戸籍のようなものの登録も行うらしい。
加護の確認が一歳過ぎからが望ましいということで定着した行事のようだが、別な見方をすると、生後一年未満の死亡率が高いので戸籍登録はそれまで待つ方が合理的、という事情があるのではないかと思う。
たいていは集落ごとに、ある程度一歳を超えるくらいの子どもをまとめて一緒に連れていく、という習慣のようだ。
特にうちの領には教会がないので、隣のロルツィング侯爵領へ一日がかりで往復することになる。
今回は領主の次男たる僕の誕生日を考慮した上で、少し暖かくなる五の月初め、カーリンと目の前の乳児二人を一緒に連れていくことになったようだ。
なお、その後。
少し運動もしようか、と僕とカーリンはザムの背から降りた。
ミリッツァだけを乗せたザムの尻に掴まったり放したりしながら僕とカーリンがしばらく歩き回ってみせると、子どもたちは皆大喜びをしてくれた。
その後は、村の畑を見に行った。
こちらでは作業を邪魔しないように遠くから見ることにしたが、かなりの人数が出て土起こしをしているようだ。
すっかり雪の消えた大地に新しい土の色が掘り出され、独特の香りが漂ってくる。いかにも自然と人間の営みをしみじみと実感させる光景だ。
「ほう」とウィクトルが感嘆の声を漏らす。
ベティーナが、僕の胸元からミリッツァを抱き上げた。
「ほらミリッツァ様、広くて綺麗でしょう。ここがミリッツァ様の故郷になるんですよお」
きょとんと目を丸くして、ミリッツァは掲げられた先の光景を見やっていた。
屋敷に戻る道々、慣れない散歩に疲れたらしいミリッツァは、僕の胸前でこっくりこっくりを始めていた。
居間に入ってザムから降ろそうとすると、もうぐったり四肢の力が抜けている。
しかし、僕とカーリンがいつもの遊び場に座るのと別れて、ベティーナがソファに寝かそうとすると。
「んぎゃあああーーーーー」
両手足をばたばた、その場を離れんと転がりを始めるのだ。
眠たいのは確かなのだろう、朝に比べると泣き声に張りがない。
それでもばたばた転がり、見回し、僕を見つけて手を伸ばす。
「しかたないですねえ」と、困惑顔でベティーナはそんなミリッツァを抱き上げ、僕の隣に連れてきた。
「んぐ、んぐ、ぐしゅ……」
ほとんど開かない目をしょぼしょぼさせながら、小さな両手が僕の脇にしがみついてくる。
そのまま涙まみれの頬を擦りつけ、「んぐ、んぐ……」としゃくり続け。徐々に啜り声が途絶え。
ゆっくり力が抜けて、全身の重みが僕にかかってきた。
頭がずるずると滑り落ち、僕の膝枕の形に落ち着く。
くうくうと、満足そうな寝息が聞こえ出す。
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