第7話 赤ん坊、妹と散歩する

 ぺちぺち。

 ぺちぺち。

 いつにない感触に、意識が戻される。

 目を開くと、何やら柔らかいものが鼻先を叩いていた。

 ほとんど力の入らない、小さな掌だ。

 その先に、白い満面の笑顔。

 窓の外は、すっかり明るい。

 僕の左肩は、ぐっしょり濡れている。夜中、また食べられかけていたようだ。どう考えても、人間として認識されての扱いとは思えない。

 妹殿は、ご機嫌満タンなお目覚めらしい。

 何か不条理なものを感じないでもないけど。まあ、めでたいことではある。

 手を回して抱きしめると、「きゃう」と楽しげな声が漏れる。

 聞きつけて、ベティーナが起き上がってきた。


「お早うございますう。わあ、ミリッツァ様もルート様も、ご機嫌ですねえ」


 嬉しそうながら、どこか少し力の入らない声。

 僕以上にこの子守りは、ゆっくり寝つくことができなかったのだろう。


「よかったですねえ。ミリッツァ様、いい子ですう」


 僕の着替え中も、機嫌のよさは変わらない。

 ベッドの裾に寝かされておむつを剥がされながらも、こちらを見てにこにこを続けている。

 はうう、とあくびを抑えられないまま、それでも僕は安堵を噛みしめていた。

 ふわふわとした頭を揺らめかせていると、戸が開いた。


「ベティーナ、ルート、大丈夫か?」


 朝の支度を調えた兄が、入ってくる。

 後ろに、ザムが控えているのが見える。


「大丈夫ですう。ミリッツァ様もご機嫌ですう」

「お前は何だか、疲れた顔してるぞ」

「わたしより、ルート様も一緒に何度も起こして、申し訳なかったですう」

「だろうな。ルートもご苦労様だ」


 抱き上げられて、僕はくったり兄の肩に頭を寄せた。

 僕を連れていかれると思ったか、きゃう、とミリッツァが手を伸ばしてくる。

 苦笑して、兄は空いた片手でミリッツァを抱き上げた。それだけで、きゃきゃ、と妹は機嫌を直していた。


「こいつらは俺が下に連れていくから、お前は自分の支度をしてこい」

「ありがとうございますう」


 まだ寝間着姿のベティーナは、嬉しそうに頭を下げた。

 抱き上げた僕らを、兄は傍に控えていたザムの背に乗せる。

 僕の前に支えられて、ミリッツァは足をぱたぱたとご機嫌のままだ。


 結局、丸一日以上を過ごして、分かったこと。

 ミリッツァは、僕と一緒にしている限り、大人しく手のかからない赤ん坊だ。

 昨夜は数回夜泣きを起こしていたわけだが、その前、この家に来た最初の夜は一度も起きずに眠り続けていたようだ。

 ベティーナから報告を受けたイズベルガが、首を捻った。


「最初の夜は、ずっと馬車に揺られてきたので、疲れていたのかもしれないね。昨日はお昼寝をしたでしょう。お昼寝を短めにすれば、もっと夜もぐっすり眠れるかもしれない」

「ああ、そうですねえ。気をつけてみましょう」

「ベティーナにはずいぶん負担をかけて、たいへんでしょうけどよろしくお願いね」

「はい、奥様。ルート様が手のかからないいい子で楽をさせてもらっちゃいましたけど、ようやく子守りらしいお仕事ができますですう」


 母に頭を撫でられて、ベティーナは満面笑顔になっている。

 結果的にベティーナと僕にだけ負担が集中しているわけだが、この笑顔が曇らないうちは、まだ大丈夫だろう。

 僕の方は、拘束される時間が多くなっているだけで、体力的負担はそれほどない。

 ただ、兄と会話する時間と母に抱っこしてもらう時間が減っているのが、精神的にストレスになりそうな程度だ。

 いつも寝る前に母に挨拶して抱っこしてもらうのだが、昨夜はすぐ傍でミリッツァがぐずり泣き寸前になっていたので、その時間は大幅短縮されていたのだ。

 宣言通り母はミリッツァに触れようとしないのだが、その分実の息子ばかり抱擁するのに後ろめたさもあって、短縮されたという事情もありそうだ。この点が理由だとすると、今後も以前のようにゆっくり抱っこを堪能するわけにいかないかもしれない。

 地味に、僕にとっていちばん大きなダメージだ。

 またこれまでは、夕方や就寝前に兄の部屋で二人になって会話する時間をとっていたのだが、昨日はそれができなかった。これからも、不可能ではないがなかなか難しいことになっていきそうだ。

 まあその辺は、兄も何とか考えているだろう。


 この日からまた、午前中はベッセル先生が来て兄の勉強時間になる。

 いつもは兄の膝に乗ったり、同じ武道部屋でザムと戯れたりしながらその内容に耳を傾けていたのだが、今日からそうもいかなくなる。僕から離れようとしないミリッツァが、確実に勉強の妨げになるだろうから。

 また、ここのところずっとこの時間を掃除や洗濯といった家事仕事に充てているベティーナの習慣を、制限したくもない。

 ベッセル先生に「側室の娘」と紹介だけしてミリッツァは居間に連れていき、僕とカーリンと三人、イズベルガに見られながら遊ぶことにした。

 しかたないとはいえ、僕にとって勉強の時間が減ったのは残念だ。


 午後からは、前日と同様にザムに乗って散歩。

 ただこの日は、兄が製塩作業や畑仕事をゆっくり視察したいということで、ウィクトルとともに別行動になった。

 僕はミリッツァを前に、カーリンを後ろに乗せて、ベティーナとテティスをお供に、ゆっくりザムを歩かせる。

 僕らに少し遅れて、兄たちも帰宅した。

 ヘンリックと少し話した後、兄は僕とミリッツァを抱き上げた。「部屋でこいつらを見ている」と周りに宣言して、ザムに乗せて二階に上がっていく。

 ベッドに乗せられると、ミリッツァは機嫌よく僕の足に抱きついてきた。

 このまま昼寝をさせれば楽なのだろうが、朝のイズベルガとベティーナの話を聞いていたので、できるだけ起きたまま身体を動かすようにさせようと、さかんに足に挟んだり手を握ったりとつき合うことにする。

 兄もその腹をくすぐったり手を出しながら、話しかけてきた。


「昨日ヘルフリートから鳩便が届いたと、ヘンリックに話を聞いていたんだ。新しい領地についての概要らしい」

「ん」


 新しい領地は、こちらのもともとの領地より少し面積が大きいくらいらしい。

 元が男爵領として破格に小さいものだったせいもあるが、一気に倍増以上という異例の待遇になったことになる。

 地図の上では岩山を挟んで接しているとはいえはっきり分断されているので、やはり区別して扱う必要がある。そのため、村二つの名称をはっきり定めることにした。

 驚いたことに、こちらのもともとの領地、これまで村の名前はなかったのだ。単に「ベルシュマン男爵領の村」という呼び方で通用していたのだとか。

 二つの村を分断する岩山の名称が「ヴィンクラー岩山がんざん」というものなので、こちらのもともとの領地を「西ヴィンクラー村」、新しい領地分を「東ヴィンクラー村」とする。

 今後、それぞれの村に村長を任命する。

 それぞれの人口は、西ヴィンクラー村二百十四名、東ヴィンクラー村三百七十八名、とのこと。

 東ヴィンクラー村の主産業は、農業と林業。

 岩山近くの森は、こちらに比べて棲息する動物が少なく、生えている木の種類もやや異なる模様。例のオオカミを囲い込んでいた柵を設けた地域を含むわけだが、人の手が入っていないところも多く、植生など詳しいことは分かっていないので、調査が必要らしい。

 農作についてはあまり収穫効率がよくない。白小麦の栽培を躍起になって進めてきたが、こちらと同様寒冷地のため頭打ちになっている。

 それどころか、ここ数年はこちらと同じく冷害で不作が続き、国税の減率にも関わらずディミタル男爵領独自の領税の徴収は変わらないため、餓死者まで出している状況だったらしい。

 また元のディミタル男爵領全体として、まだ農地にできそうな土地が残っているので、開墾せよという大号令がかかっていたのだが、なかなか進んでいなかったようだ。

 開墾は領民にとっても利益になりそうに一見思えるが、そうでもないのだそうだ。開墾したとたん、その土地は農地として面積が換算され、その面積分の税が課せられる。まだろくに収穫が得られないうちから税が増えるので、農民にとっては堪ったものではない。

 結果、号令とともに領主からの開墾催促が度重なるが、実態としてはいろいろ理由をつけて遅々として進まない。特にこの東ヴィンクラー村は南北に長い領地の北の端になるので目が届ききらず、その傾向は顕著だという。

 ちなみにこの「開墾したとたん税が課せられる」というのは、領税の話だ。国税に関して言えば、新しく開墾した土地については二年間猶予されることになっている。

 だから、やり方次第で東ヴィンクラー村には農地拡大の余地があるということになる。

 しかしそのためにはまず、領民の農業への意欲を喚起しなければならない。

 前にも話が出ていたが、あちらでは白小麦の収穫が国税に充てるのにも不足する程度。その上高率の領税が課されていたため、領民は疲弊しきって農作業に力が入らない現状だというのだ。


「まずはその辺の改善、つまり領民の暮らし向きをよくすることが最優先、と父上は考えているようだ」


 なるほど、と僕は頷いた。

 なお、土地に開墾の余地があるということでは、こちらの西ヴィンクラー村でも同様だ。

 これまでは今ある畑で収穫率を上げるので精一杯だったが、生活に余裕ができてきたところで、今後北の方へ開墾を進めようという話が持ち上がっている。


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