第55話 赤ん坊、行動する

 椅子から飛び下り、ひょこひょこ、と足を進める。


「ルートルフ様、どうしました?」


 大股に、テティスが寄ってきた。

 まだ外は明るく、カーテンが開いたままの大窓を、僕は指さす。


「そこ、ひらいて」

「どうしたのです?」


 指示の通りガラス窓を開いて、テティスは振り返った。

 その脇を抜け、ベランダに出る。


「なにか、いない?」

「何かって、何でしょう」


 僕より気配察知に優れるはずの護衛が、耳を澄ましている。

 ベランダの下はただ青い芝生で、かなり左手の方に色鮮やかに咲き誇る花壇が覗く。正面向こうに林が見えている。木立は一度城壁で区切られて、そのまま王都の外まで鬱蒼と続いているはずだ。

 ここから見て右手の方向にあの植物見本用の畑、その先に作業小屋があるはずだが、建物の陰になって見通せない。

 右を見、左を見。奥の林に目を凝らす。

 と。


「ウォン!」


 ひと声響かせた、と思うと、木立の中から弾丸のように飛び出してくるものがあった。

 白銀色の固まりが、瞬く間に芝生を横切り、王宮の壁に斜めに衝突。

 ――する直前で、跳躍。

 一度壁の途中の何かを足がかりに、さらに跳び上がり、手摺りを越え、僕の横へ。

 着地したその毛むくじゃらに、いきなり僕は抱きついていた。


「ざむ!」

「ザム、お前、ザムなのか?」

「ウォン!」


 頬を寄せたしなやかな温かみは、紛うことなく親友のものだった。

 何処か青臭い茂みの匂いを纏わせたそれに、ますます強く顔を密着させる。


「ざむ、ざむ!」

「確かに、ザム。しかし、何で――」


 テティスの口にしかけた問いの答えは、深く考えずとも想像がつく。

 今日、母や兄が馬車で王都を発ったはずだ。ザムも、そこに乗せて。

 その途上、おそらくは城壁を越えた直後、馬車から逃げ出してきたのだろう。

 少し脇に逸れた先の森は、城壁に区切られてはいてもこの王宮の裏林に続いている。

 その林を抜け、この庭を横切り、作業小屋の付近で僕の匂いを見つけたのではないか。

 それより、問題は。

 これから彼を、どうするかだ。


 振り返ると、侍女二人は手を取り合って震えていた。


「へ、へ――何ですか、それ?」

「え、オオカミ?」

「ルートルフ様が飼っていたオオカミ、ザムだ。人を害する心配はない」

「そ、そうなんですかあ?」

「それよりルートルフ様、ザムをこのままにしておくわけには参りません。急いで、ベルシュマン子爵邸へ連れていかないと」


 僕と一緒に、ザムは室内へ入ってはきたけれど。

 テティスが首を抱えて引っ張り、僕から離そうとすると、足を踏ん張って動こうとしないのだった。

 それどころか、テティスを睨んで低く「うう」と唸ってみせさえする。


「わあ、唸りましたあ」

「本当に人を害さないんですかあ、テティスさん」

「――そのはず、なんだが」

「むり、ててす。ざむ、かえるきない」

「しかし、こうしておくわけには」


 嘆息する護衛を横に見て、僕は寸時思案した。

 まだ外は明るい、午後十一刻にもならない頃合いだ。


「なでぃね」

「はい?」

「そこの、とびらばんにたのんで。ばるたを、よんでくるように」

「は、はい」

「わたしも、行こう」


 部屋を出てすぐ左、大扉を開くと扉番の護衛が立っている。

 僕は姿を見せず、カティンカとともにこちらの戸の中で様子を窺った。当然、ザムは僕の背中から離れない。

 ナディーネが頼み込むと、扉番はすぐ先の休憩所に同僚がいるので依頼する、と言う。

 そのわずかな時間、ここの番はテティスが代わると請け合い、すぐに駆け出していったようだ。

 ややしばらくの後、ヴァルターが急ぎ足で駆けつけた。

 大扉は薄く開け、ザムを陰に隠して僕は半身だけ乗り出す。


「ばるた、だいしきゅう、でんかと、べるしゅまんししゃく、しつむしつによんで」

「え? いや、こんな時刻に殿下をって――」

「もんどうむよう、だいしきゅう」

「は、はい――」


 真剣さが伝わったようで、大きく頷き、ヴァルターは駆け去っていった。

 こちらも急いで部屋に戻り、周囲を見回す。

 幸いなことに、ちょうど使える道具があった。


「ふたりは、ここでまっていて」

「は、はい」

「かしこまりました」


 ザムを台車に乗せ、全身をキルトのカバーで覆う。その上から、僕が首の辺りを抱える。「うごかないで」と言いふくめて。

 台車をテティスに押させて、部屋を出た。

 大きな荷物を載せた台車を見て、また扉番が妙な顔をしているが、気にせず通り過ぎる。

 執務室までの道のりで、幸い他の人には会わなかった。

 執務室に入って台から下ろすと、ザムはすぐ僕の横にしゃがみ込んできた。

 応接椅子に座り、その首を撫でてやる。

 そうしていると間もなく、ヴァルターが戻ってきた。


「殿下はすぐいらっしゃるそうです。ベルシュマン閣下はもう――え、え、何ですか、そいつは?」

「ザム。ルートルフ様が飼っていらしたオオカミだ」

「え、え?」

「ちーうえはもう、きたくした?」

「は、はい」

「わるいけど、おいかけて、つれてきて」

「かしこまりました!」


 混乱の様子のまま、ヴァルターは駆け出していった。

 王太子が入ってくるまでに、それほど時間はかからなかった。

 戸を開いて一歩入り、正面に座る僕を見る。


「ルートルフ、急用とは何だ。ん――?」


 すぐに、僕の傍らにうずくまる動物を見つけたようだ。

 戸の外の護衛を振り返り、「誰が来ても入れるな」と、言いつける。

 固く戸を閉じて、大股で僕の向かいの椅子に歩み寄り、腰を下ろした。


「それは、領地で飼っていたオオカミか」

「ん」

「それが、どうしてここに?」


 傍らに立つテティスを見上げると、代わりに説明してくれた。


「本日、奥様たちが領地へ発たれたのですが、その途中で馬車から逃げ出したと思われます」

「それでここまで、ルートルフを嗅ぎつけてきたというのか」

「元々このザムは、ルートルフ様をお護りするためだけに生きているようなものですから」

「それは、何と――しかしルートルフ、これをどうするつもりだ」

「ここで、かう。こうきゅうと、このしつむとう、あるかせる、きょかほしい」

「できるわけないだろう、そんなこと」

「できない?」

「オオカミだぞ。皆が怖がって、大騒動になる」

「しゅうちてってい、して。ぜったい、ひとにこわいこと、しない。くびにひもつけて、くちにぬの、まく」

「そんなことでは誤魔化せないだろう。怖がるなという方が無理だ。諦めて、ベルシュマン卿の屋敷へ帰せ」

「このざむ、ぼくからはなれない。むりにはなそうとしたら、ちをみる」

「何だと?」

「ざむをしょぶんするとしたら、ぼくがゆるさない」

「何を――」


 王太子は、がりがりと頭をかいて唸った。

 その目で改めて、僕を正面から睨みつける。


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