第56話 赤ん坊、対峙する
「信じられん。オオカミ一匹に、何故それほどムキになる?」
「ざむ、ともだち。かぞく」
「家族、と言われても……」
「でんか、まえ、いった」
「何だ」
「ぼくに、ふじゆうさせないって」
「それは言ったが。オオカミ一匹のいるいないが、自由不自由になるのか?」
「あかんぼくるま、ざむより、ふべん」
「それはどうか知らないが。あの車自体、ふつうの家にはないものだ。不便と言うのは贅沢というものだろう」
「そう?」
「上に立つ者として、王宮内の秩序は守らなければならない。ここでは、犬猫でも飼育は禁止だ。後宮で飼っていた例はあるが、部屋から出さない約束の上だった。オオカミを乗り物代わりにするなど、言語道断だ」
「あんぜんをほしょう、しても?」
「そんなのは、通じない」
「ぜんれいがない、から?」
「まあ、そうだ」
「ぜんれいなど、くそくらえ」
「そんな言い分は通らない。貴族社会も王宮も、秩序が大切だ」
「ちつじょ……」
息を吐いて、僕は目を閉じた。
閉じていても、王太子が正面から
王族の、相手に言い分を通すことに慣れた、睨みつけ。
それを、再び開いた目で、見返す。
「……いいたく、なかったけど」
「何だ」
「もうすぐ、べるしゅまんししゃく、くる」
「それが?」
「こうきゅうのこと、はなしたら、きっとぼくをつれかえる、いう」
「何? それは、どういうことだ。後宮のこととは?」
「……じぶんで、しらべて」
「どういうことだ、言え」
「いいたくない」
「何?」
口を閉じ、瞬きをせず。
そのまま正面から、睨み合う。
静止して、どれだけの時が経ったか。
戸口に、ノックの音がした。
続いて、ヴァルターの声。
「殿下、ベルシュマン閣下がいらしています」
「通せ。卿だけ、
「は」
護衛の声とともに、戸が開いた。
困惑まみれの態で、父が入ってくる。
膝をついて礼をとろうとするが、王太子はそれを制した。
「礼はよい。息子の隣に、掛けよ」
「は、恐れ入ります」
寄ってきて、足元のザムに気がついたようだ。
「ザム、やはりここに――」
「それがどうしたか、聞いているか」
「はい。先ほど、連絡が入りました。領地へ向かう馬車から、突然逃げ出したと」
「やはり、そうか」
「まったくもって、申し訳ありません。このようなご迷惑を」
「来てしまったものは仕方ないが、卿、これを連れ帰ることはできるか」
「は……」
父の目は、僕とザムの間を、往復した。
そして汗を拭う仕草で、王太子に向き直る。
「畏れながら、これはルートルフの元を離れようとしないものと」
「
今度は、王太子の視線が、僕と父の間を往復した。
その後、目を閉じ、開き、また閉じる。
これ見よがしの溜息の後、ゆっくりその目はまた開かれた。
「分かった。許可する、飼ってよし」
「は……」
「この上なく、異例の措置だ。そう心得よ」
「ありがたく、ぞんじます」
「まったくもって、ありがたい仰せを」
「よい。それでルートルフが、勤めに集中できるなら」
「は」
「恐れ入ります」
「それでルートルフ、例の荷車は、週明けに完成品を見せてくれるのだな?」
「は」
「楽しみにしている」
言葉とは裏腹に無表情のまま、王太子はすっくと立ち上がった。
そのままつかつかと、戸口へ向かう。
父と僕は、その場で深く
続けて、戸が閉まるなり、長々とした吐息。
妙に力の入らない手つきで、僕を膝に抱き載せる。
「いったい、何だというのだ。さっきここへ入ったときの、緊張感は」
「ちーうえ、しらないほうが、いい」
「知らない方がいいことを、知りたいとも思わぬが。お前、殿下に無礼を働いたのではあるまいな」
「そこまでは……みかた、しだい?」
「見方によっては、無礼になるのか!」
「まあ、いまのとこ、だいじょぶ」
「お前――父の寿命が縮むぞ」
「ごめん、なさい。でも、ざむ、ころさせない」
「確かにまあ、このままザムが意に沿わぬとなれば、殺処分の断が下される公算が大きいか」
「ん」
「それにしても、殿下のご機嫌を損ねるのは、得策では――」
「しかたない。――それより、ちーうえ」
父の言葉を遮って、話題を変える。
護衛以外は二人きりという、このめったにない機会を、無駄にしたくない。
「おねがい、ある」
「ん、何だ?」
「りょうちから、だいしきゅう、とりよせて。しろとろのきの、えだ」
「シロトロ? 何だ、うちの領地にあるのか」
「もりのいりぐちに、はえてる。そのえだ、ひとかかえ、だいしきゅう」
「そうか、今すぐヘンリックに鳩便を飛ばせば、今日中に採取できるかもしれぬな」
「おねがい」
「分かった」
もう少しこうしていたいのも山々だが、急いでもらわなければならない。
父も名残惜しげながら、急ぎ足で出ていった。
替わって、ヴァルターが入室してくる。
かた、という音に振り返ると、珍しくテティスが直立の姿勢を崩して、机に手をついていた。
「閣下のお話ではありませんが、ルートルフ様、わたしも寿命が縮みましたよ」
「ん、ごめん」
「どういうことですか、ルートルフ様。殿下と何か?」
ヴァルターも状況が理解できず困惑顔だが、詳しく話すわけにもいかない。
改めてザムの頭を撫でながら、僕は首を振り返した。
「なんでもない。ちょっと、けんりのしゅちょう」
「権利、ですか」
「とにかく、このざむをおくこと、きょか、えた。これから、のってあるく」
「乗るのですか?」
「ん。なれて」
「慣れてって、そんな――」
「諦めろ。これはもう、本当に慣れるしかない」
これもいつもならあり得ないほどに驚愕の色を表すヴァルターに、テティスは首を振ってみせる。
そちらを見ながら、ぽんと脇腹を叩いてやると、即座にザムは身を起こした。
椅子に合わせた高さのその背中に、するり横移動して跨がる。
いかにも嬉々とした動作で、白銀のオオカミは四肢を伸ばして屹立した。
「わ」と、ヴァルターが息を呑むのが分かる。
「あ、それからばるた、おねがい」
「はい?」
「ちょうりばに、たのんで。のねずみの、すてる、ないぞうやほね、こっちにまわしてほしい」
「ああ、分かりました。さっそく依頼してきます。たぶんすぐ調達できるでしょうから、後宮側から誰かに取りに来させてください」
「ん。よろしく」
首脇を撫でると、ザムは歩き出す。
「いろいろありがと。また、あした」
「は、はい」
そのまま前進すると、ヴァルターが戸を開いてくれた。
キルトを載せた台車を押して、テティスが後に続いてくる。
通路では誰にも会わなかったが、後宮入口では扉番がやはり、恐慌に陥った様子になっていた。
「王太子殿下の許可を得て、これからルートルフ様はこの形の移動が多くなる。よろしく頼む」
「は、はい……」
テティスの説明にも、ほとんど理解が及ばないという反応だ。
――まあ、無理はない。
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