第57話 赤ん坊、安眠する

 部屋に戻って、さらに侍女二人の驚愕反応を得た。

 こちらにも、テティスが何とか説明をする。


「見た目、しばらくは慣れないだろうがな。この移動がルートルフ様にとって最も便利で快適なのだ。何より、護衛が一人増えたようなもので、格段に安全度は高まる」

「ま、まあ……」

「このルートルフ様にちょっかいを出す者は、いないでしょうねえ……」


 かなり遅くなったけれど、それから夕食をとった。

 カティンカに調理場へ行ってもらうと、ヴァルターから話が通っていて、野ネズミの内臓が一山用意されていた。

 どうせ捨てる部分なのでゴミが減って助かるとばかりに提供は歓迎で、これから毎日クヌートが率先して用意してくれるということだ。

 それを与えられたザムの勢いのいい食事の様には恐怖を覚えても仕方のないところだが、意外と侍女たちは楽しげに見守っていた。


「すごい勢いですねえ」

「やっぱり、これだけ身体が大きいものねえ」


 何となく、こちらの二人の方がヴァルターより慣れが早そうな気がする。

 少し温くなった湯で順番に入浴し、最後にテティスがザムを洗ってくれた。

 その仕上げに、ナディーネとカティンカは両側から布を覆いかけて、大騒ぎで拭ってやっている。

 もうすっかり、怖さも消えたようだ。二人とも地方の村出身なので、野生の動物に忌避感はないのかもしれない。

 十分毛を乾かしたところで、ザムを僕の傍らに返してもらえた。

 床に丸まったその腹部に、僕も頬を寄せて添い寝する。

 何となく、女たちの生温い視線が集まってきている気もするが、無視する。


「ざむ、ざむ」


 さわさわ、さわさわ、と温かな背から腹を撫で回す。

 寝る前にしばらく懐かしい感触に浸るつもりだったのだけれど、不覚にも間もなく意識は途絶えていた。


 目覚めたのは、一の鐘を聞いてのことだったようだ。

 いつもの大きなベッドの中央で、ぼんやり天蓋を見上げ、前の日の記憶を集める。

 久しぶりの、楽しい記憶。それが夢だったか現実だったか脳内に確信が持てず、やおら不安が迫り上がってきた。

 ころり転がって、ベッドの端を目指す。朝の活動開始の気配が伝わってくる隣室をすぐにこの目で確かめないと、と気忙しく足を下ろす。

 とたん。

 ふに、と足裏は柔らかな感触を伝えてきた。


「え?」


 慌てて見下ろすと、馴染み深い友の顔が、口端に舌を覗かせ仰のいてきた。


「ざむ――」それと認めるやいなや、僕は遠慮も配慮もかなぐり捨てて、寝台縁から全身を伏せ落としていた。「ざむ、おはよ」

「うぉん」


 いきなり覆い被さられても、平然とザムはうずくまりの姿勢を続けている。

 夢ではなかった、と安堵。その実感を噛みしめて、僕はまたひとしきりその毛並みを撫で味わっていた。


「え、あれ――ルートルフ様?」

「……おはよ」


 しばらくの後、戸を開けて入ってきたナディーネが一瞬足を止め目を丸くしたが。

 気を取り直したような笑顔で、すぐに寄ってきた。


「お早うございます。ザムと遊ぶなら、着替えてからにしてください」

「……ん」


 子どもっぽいはしゃぎ姿を目撃された気羞ずかしさを押し殺して、僕は大人しく抱き上げられた。


――いや、赤ん坊なんだから、恥ずかしがらなくてもいいんだろうけど。


 ベッドの縁に腰かけさせられ、そそくさと着替えを介助される。

 以前とうって変わった甲斐甲斐しさが、どうかすると疎ましく思えるほどなのだけど。


「……じぶんで、できる」

「ダメですよ、一昨日おとついだって、ボタン掛けまちがえてたじゃないですか」


 などと言われると、抵抗しきれなくなってしまうのだ。

 この辺に関しては、女三人共同戦線で口を揃えてくるので、少数野党は黙り込む以外なくなってしまう。

 それでも今日からは、口の助けにはならないが、大きな味方がついてくれる。

 身なりを調えてもらって、僕は意気揚々とザムの背に跨がった。

 ナディーネを脇に従えて、居間に移動する。


「おはよ」

「お早うございます。あ、ルートルフ様、いつもよりお顔の色がおよろしいようですう」


 テーブルに朝食を用意していたカティンカが、明るい笑顔を向けてきた。

 ふだんそれほど顔色が悪い自覚はなかったので、「そう?」と首を傾げてしまう。


「よくお休みになれたんですねえ。昨夜はザムに抱きついたままだったので、寝室にお運びしたんですけど。本当にザムって、ルートルフ様から離れようとしないんですねえ。当然のように、ベッドの下に寝そべってしまうんですから」

「ん」

「あんな、ルートルフ様の子どもらしいところ見れて、安心したよねえ」

「ねえ」

「う……」

「本当にザムが来てくれて、よかったです」

「です」


 はしゃぎ合う侍女たちに言い返そうとして、うまく言葉が紡げず黙ってしまう。

 部屋の隅で黙って笑っているテティスの顔も、何だか憎らしい。

 しかしその護衛の顔も、すぐ苦笑から真顔に近く締まっていく。


「しかし、今日はかなりの騒動、覚悟しなくてはならないでしょうね」

「だね。まわりが、ざむになれるまで」

「何があるか分からないので、気を引き締めていようと思います」

「ん」


 一通り朝の日課を終えたところで、ナディーネが何やら布のものを持ち出してきた。

 僕の座るテーブルの上に、ベージュ色の布きれと紐を合わせたらしきものを広げてみせる。


「昨夜、カティンカと協力して作ったんです。テティスさんのお話によると、王太子殿下にお約束したということで」

「ん?」


 説明では、ザムの首輪と口輪らしい。

 首に一回り厚手の布を巻いて、長い革紐をつけて誰かが握る。

 オオカミの突き出した口の周りを覆う布を装着して、頭の後ろに回した紐で固定する。

 どちらもザムが本気になれば引きちぎってしまえると思うが、とりあえず王宮内を歩くときにこれらをつけていれば、凶暴な印象は和らげるだろう。

 特に口輪の方はザムが嫌がりそうなものだが、試着の限りでは大人しくつけられていた。

 これは通路を歩く間だけのもので、執務室に入ったらすぐ外すということで我慢してもらおう。

 そういったことを、全員で確認した。


 通路に人が多くなると面倒なので、いつもより早く部屋を出た。

 僕が跨がるザムに口輪と首輪を装着、革紐をカティンカが握るという態勢だが、やはり扉番は緊張の構えを見せた。

 執務室に向かう途中で出会った数人の役人も、驚愕の表情で固まっている。

 明らかに高位の貴族がいないのを幸い、できるだけ急ぎ足で自室に飛び込んだ。

 すでに室内の準備をしていたヴァルターも、物珍しさを隠せない目を向けてくる。


「周りを怖がらせないための装備ですか。たいへんですねえ、やっぱり」

「ん。これで、せいいっぱい」


 部屋に落ち着くと口輪は外し、首輪の紐は僕の机の脚に固定する。

 それで納得の様子で、ザムは穏やかな仕草で机脇に身を伏せた。

 作業場の今日の分の指示は済んでいるので、午前中いっぱい屋内執務の予定だ。


「あ、クヌートから伝言がありました。ルートルフ様に言いつかったナガムギの加工品ができたので、お見せしたいということです」

「ん。ひるまえに、もってこさせて」

「分かりました」


 今日は、宰相や父との面会日だ。その前に試食を済ませたい。

 そんな打ち合わせで、執務に入る。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る