第58話 赤ん坊、陞爵を聞く
お昼寝をして、それなりに体力は回復した。ミリッツァはまだ目覚めそうにない。
そちらを起こさないように、そっとソファから滑り下りる。
クラウスに頼んで、また新たな筆記用の道具を用意してもらう。
ちょうど戻ってきたベティーナを呼んで、屋敷に所蔵している本を横に開いてもらう。
周りの様子を窺いながら、そうして僕はふんふんと鼻歌交じりに必要箇所の書写を始めていた。
もしかすると他のものと組み合わせて使うことで有用かもしれない農作物や鉱物などを、書き出しておく。王宮の図書などを調べてうまく組み合わせる片割れが見つかれば、儲けものだと思うのだ。
少しして部屋に入ってきた兄が、面白くなさそうに僕の手元を睨みつけてきた。
「……楽しそうだな」
「ん。おうきゅうのしごとに、やくだてる。たのしみ」
「ふん」
そのまま、がつがつと乱暴な足音を立てて出ていってしまった。
そちらを見ずに、僕は鼻歌交じりの作業を続ける。
ふと目を上げると、どこか心配そうなベティーナの顔があった。
「おうきゅうではたらく、たのしみ」
「そう、ですか……」
「くにのやくにたてる、おおいばり」
「はい」
ふんふんと、鼻歌。
同室の他の人たちからは、声も物音も返ってこない。
夕方帰宅した父からは、また王宮絡みの続きの情報があった。
騎士団長から面会があり、僕に関して問い合わせられたという。
「ルートルフに関する情報は王族と三公爵までに留めて、なるべく広がらないようにしていたんだけどな。騎士団長たるアドラー侯爵も、何処からか聞きつけたらしい。人一倍国防に熱心な方だから、話を通しておけば情報漏洩の懸念はまずないが」
「ん」
「そういうことなら王宮警備にさらに念を入れておかなければ、という確認とだな。ふだんは騎士団を率いていて、非常時には国軍全体の指揮を執る御仁だから、当然軍事に関する関心が高い。ルートルフにそうした知識があるなら、相談したいということだ」
「ん」
「現在懸念の件は、隣国と比べて我が国の軍事力に不安を拭えないという点も、一因だからな。陛下や王太子殿下、宰相もその点では同意だ。そちらに知恵が出せるならぜひとも、という仰せなんだが――そういう方向で使えそうな知識は、あるのか?」
「ある、かも」
「まあ他のことと同様、実状に照らし合わせてうまく合致すれば、ということになるんだろうな。宰相も認めておられるし、何か思いついたらということでいい、そちらも気にしておいてほしいということだ」
「ん」
「正直なところを言えば、まだ幼いルートルフに、そんな血生臭い方面のことを考えてほしくはないんだがなあ」
「しかたない」
母の胸にもたれて、向かいの父に頷き返す。
真上で見えていないが、母の顔も同じような曇りを見せているのだろう。
今日は共に呼ばれて母の隣に座る兄も、こちらを見ようとしないが沈んだ横顔だ。
「あと、本来ならこちらの方が大きな報せなわけだが。我が家の陞爵と増領が決定されたという内示があった。来週頃には正式発表され、私は子爵となり、元のディミタル男爵領のすべてが領地に加えられる」
「まあ……おめでとうございます」
「おめでとうございます、父上」
「めでと……じゃましゅ」
家族の祝福にわずかに笑顔になり、すぐに父のそれは苦笑の様になっていた。
小さく溜息をつき、首を振り。
「早晩中途半端な情報が回って、ベルシュマンは息子を売って陞爵を果たした、と噂されることになるだろうな」
「そんな――父上!」
「気にしてもしかたない。貴族社会とは、そうしたものだ」
「しかし……」
「気にしている暇などまったくない。東ヴィンクラー村の現状把握も不十分なうちに、さらにその倍以上の領地が増えるのだ。ウォルフとヘンリック親子には、今まで以上に奮励してもらわねばならぬ。使用人も増やさねばならないが、すぐというわけにはいかぬしな」
「それは、はい」
「本来面倒でしかないのだが、陞爵にあたってはしばらく貴族社会での付き合いが活発になって、私は身動きがとれなくなる。新しい領地の把握には、またヘルフリートに動いてもらうしかないだろうな。ウォルフにはそちらに目を向けていてほしい」
「はい」
「発表後には貴族たちを招いて祝賀会を催さねばならぬし、イレーネもしばらくは領地へ帰ることが叶わぬな」
「承知しております」
その辺はすべて、僕がこの家を出てからの話だ。
僕の参加はどこまで可能なのか。王宮から要求されている事案の待ったなし度合いからして、ほとんど望みは薄い気がする。
両親と兄の話し合いも、特に言及はされないが、僕がいない前提でのようだ。
「まあすべて、正式発表までは大っぴらに動けぬことだがな。とりあえず明日は、ルートルフの出立とこの慶事で、内々の宴ということにしよう」
「承知しました」
僕の件については皆が微妙な受け止めだが、ともかく使用人たちに向けては『めでたいこと』という扱いにせざるを得ない。
この陞爵の内示を受けて、内輪では一緒にしてめでたく祝う口実ができたということになるのだろう。
とりあえずは簡略ながら祝いの膳を用意して、よほど特別なときしか行わない、領主一家と使用人たち一同で卓を囲む形をとろう、という話になっている。
明日――は、僕が終日この屋敷で過ごす最後の日だ。
六の月の五の土の日。王宮の務めが原則休みで、父は家にいることになっている。
内祝いの宴を決めたので、母はヒルデやクラウスに指示をしている。使用人たちは一日、その準備に大わらわということになるようだ。
やはり僕には特段することもなく、ミリッツァと床に就いた。妙に落ち着かず、妹を胸に抱きしめてようよう眠りに落ちていく。
長々と、どよどよとした夢に絡まれた。何も、判然としたものがない。いや、単に目覚めたときに記憶に留まらなかっただけかもしれない、けど。
目が覚めたのは、まだ暗闇の中。わずかにぼんやりとした灯りを横に、ベティーナが顔を布で拭ってくれていた。
「ん……?」
「あ、お目覚めですかあ?」同床の妹を気遣ってだろう、子守りはひそめた声を落としてくる。「何だかルート様、うなされたみたいになってましたよお」
「そ……」
胸にひっつくミリッツァは、すうすうと穏やかな寝息を続けている。
小さなランプをテーブルに置いて覗き込むこの子守りは、真夜中に僕の異状を聞きつけてきたらしい。
顔を拭ってくれている、というのは、涙が滲み出ていたせいか。
そのままぽんぽんと、ベティーナは掛け布団の上を叩いてくる。
「何も怖いことないですよお。朝まで、おやすみなさい」
「ん……」
「ルート様、いい子。ミリッツァ様もいい子ですう」
静かな、ハミング。優しい、小さな手の調子。
生まれてから一年と三ヶ月。数えたこともないけど、このぽんぽん奉仕は数知れず受けてきたはずだ。
手慣れた絶妙の加減のリズムに安心して、僕の意識はすぐにたゆたい始めていた。
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