第57話 赤ん坊、領地を考える
侍女同伴可、という件については、それを聞いたベティーナがぜひにと希望を申し出たが、イズベルガと母に説得されて断念したらしい。
夕食後、僕とミリッツァの入浴の世話をしながら、未練げに訴えていた。
「こうしてルート様を洗って差し上げられるのも、今日と明後日で最後ですう」
「ん。これまで、ありがと」
「うう……」
顔をくしゃくしゃにしかけながら、ミリッツァのご機嫌顔を妨げないようにと、懸命に堪えている。
妹の柔らかな肌を、大切そうにそっと布で擦り立てる。そんな見慣れた腕まくりの子守りの仕草を、盥の湯に浸かってぼんやり眺める。
ベティーナの言う通り、こんないつもの習慣も二日後、たぶんあと一回で終わりになるのだろう。
一般民衆はもっと回数が少ないらしいが、貴族の入浴はおよそ二~三日に一度という頻度だ。
今も僕のすぐ横に置かれている、大人一人がゆったり足を伸ばせる大きさの湯船で全身を温め、お付きの者が髪や身体を洗う。
もちろん赤ん坊がそちらの浴槽に入ったら即溺死だろうから、僕らは専用の盥で湯に浸かるわけだ。
父や兄は付き人をつけずに一人で入浴しているようだけど、もっと格上の貴族は成人男性でも付き人の世話を受けるらしい。
何となく僕としては成長したら兄の例に倣うつもりでいたのだけれど、こんなところも王宮入りしたら向こうの習慣に合わせることになるのだろう、と思う。
「こちらではわたし一人でお二人のお世話をしてますけど、王宮ではルート様お一人に何人も人がつくんでしょうねえ」
「ん」
「きゃきゃきゃきゃ」
全身洗われたミリッツァが一緒に盥に入れられ、素肌を絡ませてくる。
ちゃんと温まれるようにそれを抱き押さえて、何とはなしに僕は苦笑になる。
「……そうぞうつかないけど」
「ルート様がお世話いらなくなるまで、おつきしたかったですう」
ぐ、と目の奥が熱く痛み出すのを覚えながら。
気を奮わせて、僕は子守りに笑い返す。
「おうぞくくらし、たのしみ」
「ルート様……」
「ぜいたく、できる」
「……う……そう、ですね。ルート様がいい暮らしできるの、お喜びします」
「ん」
夜は、なかなか寝つけなかった。この日、いろいろありすぎたのだ。
この家で過ごすのは、あと二日と少し。生活が一変する。
当然ながらその先に、不安は尽きない。
しばらく意味もなく、思い漂わせていた。
それでも赤ん坊の身、嫌でも眠りは訪れる。いつもとは違って正面からミリッツァを抱き寄せて温かみに浸っているうち、意識は薄れていたようだ。
眠りの中で、胸元やら顔面やら、いつになくあちこちに湿りが伝い染みていく感覚を覚えた気がする。
翌日、父は通常通りに王宮へ出勤。
兄は、食事以外部屋から出てこない。
母とイズベルガは僕の準備について相談したが、結局何もできることはないという結論になって、普段通りの裁縫仕事に耽っている。
いつの間にか一人で遊ぶことを覚えたらしいミリッツァは、ベティーナに見守られた床の上で鞠と戯れている。
本来なら兄と勉強か読書の時間ということになるのだが、僕はやることをなくしている。
思いついてまた、クラウスに筆記用の板を用意してもらった。
領地の産業について、まだ気になることがいくつも残っている。王都に来てから得た知識で、さらに思いつきも増えている。現地で経過を見守ることはできなくなるわけだが、とりあえず覚え書き程度には残しておこうと思うのだ。
現在ベルシュマン男爵領の小麦は春に種をまいて秋に収穫しているが、南方では秋に種をまいて春に収穫という方式が主流で、収量も多く品質も高いとされている。北方でもこの方式を導入する余地はある。雪の下でも生育できる可能性があるので、工夫を試みたい。
キマメの栽培法もまだ不明の部分が多く、工夫の余地がありそう。肥料の与えすぎ注意、水はけ、防虫などを試行錯誤したい。
炭焼きはまだまだ品質を上げることができると思う。領地の特産とできるようにしたい。
東の森に生息している次の植物は、他地域の産物と合わせて製品化の原料にできる可能性があるので、実態調査しておきたい。
………
………
……等々。
書いたものは、イズベルガに預けることにした。
領地に帰ってから兄とヘンリックに見せてほしいと頼むと、少し複雑な表情ながら、承諾してくれた。
書き忘れはないかとうんうん唸っていたせいで、この筆記に午前中いっぱいかかってしまった。
気がつくと、頭にも身体にもかなり疲労が溜まっているようだ。
身体は、自分がすっぽり乗ってしまいそうな大きさの書板への筆記で、全身運動を余儀なくされたせい。
頭は、やはりこうした頭脳労働、赤ん坊の本来の能力を超えているせいではないかと思われる。今日のこの程度で限界を超えるというほどではないが、ほどほどで休息を入れる必要を本能的に感じてくる。
――王宮では、これをフルに働かすことが求められるんだろうなあ。
今からでは遅いかもしれないけど、もう少し頭脳労働の持久力をつける慣れが必要、という気がする。
昼食の後は、ミリッツァと遊ぶことにした。
少し離れて床に座り込み、鞠を転がしてのキャッチボール。
わざと横手に外して転がしてやると、ミリッツァは勢いよくはいはいでそれを追っていく。両手で拾い上げて、きゃわーー、と歓声を上げる。
いつの間にか、はいはいの力強さと速度はかなりのものになっているようだ。
ベティーナの話では、立ち上がれるようになるのももうすぐだろうということだ。
そうした遊戯を二刻ほども続けているうち、ミリッツァの動きが鈍くなってきた。
瞼が重そうに落ちかけて、お昼寝の時間を迎えた合図だ。
ベッド代わりのソファに上げて、僕も隣に寄り添う。
いつもはミリッツァを寝かしつけるまでの、形ばかりの添い寝だけど。この日は僕も眠気を抑えられなくなってきた。
この意識に目覚めてしばらくしてから以降、昼寝の習慣は不要としてきたのだけれど、どうも午前中の作業の疲労が溜まっていたせいのようだ。
とろとろと、眠りに落ちていく。
目覚めると、少し離れて人の動き回る気配が続いていた。
開いた扉の向こう、玄関ホールで、護衛たちの剣の稽古か。
素振りの音に混じる気合いの声からして、兄とベティーナも加わっているようだ。
寝つく前と変わらず、ぴったり寄り添ってミリッツァが眠っている。
傍らのソファで、母とイズベルガが裁縫をしている。
いつもの、平和な午後の佇まいだ。
こんな暖かな空気の中に揺蕩っていられるのも今日明日限り、と思うと、また鼻の奥がつんとしてきた。
眠り続けるミリッツァを妨げないように気をつけながら身の座りを直していると、母が顔を向けてきた。
「あ、ルートルフ、目が覚めたの?」
「……ん」
「ちょうどよかった。ちょっとじっとしててね」
すぐ隣のソファから身を伸ばしてきて、手にしていた布を僕の胸元に宛がうのだ。
白く柔らかな生地が薄い水色の刺繍で縁取られた、それは涎掛けらしい。
もうほとんど僕には不要の装備だが、赤ん坊の外観の常識を保つ意味で、毎日取り替え身につけているものだ。
「これくらいは王宮でも邪魔じゃないと思うの。何枚か新しく作っているから、持っていきなさいね」
「……ん、ありがと……」
「これくらいしかできないのが、母親として情けないんですけどねえ」
自嘲的に小さく笑って、裁縫の姿勢に戻っていく。
「ありがと」ともう一度呟きながら、僕はそれ以上何も言えなかった。
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