第56話 赤ん坊、説明を受ける

「ルートルフを、王宮に、ですか?」

「ああ」


 じりじりと抱く手に力が込められ、僕の顔は母の柔らかな胸元に押しつけられていた。

 数度、その胸が荒い息に喘ぎ、ひしと止められる。

 それから少しの間を置き、ふうう、と静かに長い吐息が落とされた。


「……それは、たいへん名誉なことですね」

「母上?」

「わたしたちの子どもが、優秀さを認められて王族に取り立てられるのです。これに勝る名誉はありません」

「そんな……母上……」


 信じられない言葉を聞いた、とばかりに兄は青ざめた顔で声を震わせた。

 何度も息を呑み、喘ぎ。


「私たちの大切なルートルフを取り上げられるのですよ? ルートはこの小さな身で、国のために働かされるというのですよ?」

「ウォルフ、大切な家族が離れる寂しさ悲しさは、当然あります。それでもわたしたちは、国のために役に立てる栄誉を喜ぶべきなのです」

「そんな……ルートは……」

「にいちゃ」


 僕が声をかけると、ひく、と兄は言葉を切った。

 にっこり笑いを向ける。その先で、ますます意外そうに目が瞠られる。


「おうぞくになれる。うれしい」

「え……」

「ぜいたく、できる」

「そん……」

「びんぼ、あきた」

「そんな……」


 わなわなと口を震わせ。

 ようやくのように、兄は声を絞り出す。


「ルートは、王宮に入るのが、嬉しいのか」

「ん」

「うちの暮らし、嫌だったのか」

「ん」

「そんな……」

「おうぞく、なれる。さいのうみとめられて、おおいばり」

「そうか……」


 く、と兄は唇を引き結ぶ。

 今まで見たこともない鋭い視線が、僕の顔を射貫く。


「分かった。勝手にしろ!」


 がば、と立ち上がり。大股の歩みで、兄は部屋を出ていった。

 バタン、といつになく激しい扉の閉まる音。

 ふう、と誰かが息を漏らし。

 僕の顔は、改めて母の胸に押し埋められていた。

 ゆっくり、父は使用人を振り返っている。


「そういうことだ。そのつもりで、準備を進めてくれ」

「はい」

「かしこまりました」


 僕にとって初めての国王拝謁は恐ろしく長い時間をかけたように感じられたが、実際にはまだ昼食時間にもなっていなかった。

 着替えを済ませ、昼食の後、父は使用人一同に今回の件を告げた。

 とはいえここで伝えられたのは、「ルートルフがその才を認められ、王族として取り立てられることになった」という事実だけだ。

 当然、思いがけない報せに一同は驚愕の顔になる。

 中で、イズベルガが真っ先に現実を取り戻した。


「それは、名誉なことで。おめでとうございます」

「おめでとうございます」


 他の使用人たちも、口々にイズベルガに続いた。

 それでも、ベティーナなどは見るからに驚嘆の硬直が解けないままだ。


 僕の王宮入りは決定だが、正式な扱いとしては未定だ。

 男爵家から養子として引きとられる形になるかもしれないし、公表されていなかった王の実子という発表になるかもしれない。

 そのためこの件はまだ外部に秘密の扱いとせよ、と父から申し渡される。

 幸いにと言うか、次男の生誕の事実さえまだ貴族間にお披露目されていないのだから、ほとんど噂にもならないだろう。

 ただ、三日後に王宮から迎えが来るので、そのための準備を進めよ。

 しかしそうは言っても、準備するものはほぼ何もない。生活に必要なものは、すべて王宮側で用意するということだ。

 衣類などはこちらで設えてもおそらく格式に合わず、無駄になるだけだろう。

 玩具など僕の愛用品があれば持参は構わないと言われているが、そんなもの何もない。領地の屋敷にある玩具類は、今後ミリッツァとカーリンが喜んで使うだろう。

 まさか、ミリッツァやザムを一緒に王宮へ連れていくわけにはいかないだろうし。

 何だか半分狐につままれた様子のまま、使用人たちは仕事に戻っていく。


 この日の昼食時、兄は部屋から出てこなかった。

 母の指示でヒルデが食事を運んでいくと、一応ぞんざいながら受けとったらしい。

 弟が家を出ることに衝撃を受けているのだろうとは誰もが理解できたので、皆ことさらに触れないようにしているようだ。


 父は、午後から通常通り出勤していった。

 話題にも出ていた通り喫緊の業務が詰まっているし、僕の王宮入りについてさらに細かく宰相と詰めておく必要がある。


 夕食前に帰宅した父に、母とクラウスとともに呼ばれて僕は説明を受けた。

 王宮入りした僕は、後宮に一室を与えられ、そこで寝起きすることになる。当然、世話をする侍女がつけられる。

 現在の後宮は、最奥部に正妃が住み、それから順に第二妃以下の部屋、王子王女の部屋がある。おそらく僕の部屋は、最も手前付近になると思われる。宰相から話があった通り毎日そこから出て執務室に通う都合からも、そういう位置どりが効率的と言える。

 後宮の管理は、事実上正妃が行っている。王の命が届かないというわけではないが、女子どもだけが住まう場所なので、それが現実的なのだ。正妃の管轄の元、女官長が多数の侍女や警備職などを監督しているという形らしい。

 僕の執務の上では、補佐として宰相の次男、配下の事務職として宰相が選んだ文官を就ける予定。どちらも中等学院を卒業して間もない十八歳の若者で、先輩の傍で執務見習い中の身分のようだ。


「見習いとはいってももう一年以上の執務経験があって、王宮執務棟での動きには熟知しているはずだ。宰相ご次男のゲーオルク殿には私も何度か会ったことがあるが、しっかりした文官だ。王太子のご学友で、信頼が篤いと聞く」

「ん」

「あと身の回りの世話をする侍女については、こちらで慣れた者を連れていくのは構わない、という話だ。つまり、ベティーナをそのままつけてやることはできるわけだが、どうする?」

「んーー……」


 考えて、僕は父と母の顔を見回す。

 慣れ親しんでいるベティーナがずっと傍にいてくれるのは、僕にとって大変ありがたい。

 しかし――。

 母の眉がかすかにひそめられているところからして、僕の懸念が的外れということはなさそうだ。


「ほんにん、もたないんじゃ?」

「そうですね」静かに、母は頷く。「こちらとは仕事内容や仕来しきたりなどがまるで異なるでしょうから、ベティーナが慣れるのはたいへんだと思います」

「やはり、そう思うか?」

「それに、王宮の侍女は貴族の子女や大商人の子どもが多いと聞きます。そういう格の上でも、ベティーナがその中に溶け込むのは難しいでしょう。本人はルートルフのためについていきたがるかもしれませんが、心身ともに保たないのではないかと思われます」

「だろうな」

「ん。むり、させたくない」

「ルートルフが親しい者一人もいない環境で新しい生活を始めるというのが、心配で堪らないのですが」

「なんとかする」

「何とかするって、お前はこんなこと、初めての経験なのだろうに」

「あかんぼう、なれるのはやい」

「うーん……」


 父はしきりと唸っているけど。

 事実上、他にどうしようもないのだ。

「ルートルフ君に不自由はさせない」という王太子の言葉、王と宰相の同意がある。

 僕を取り込む目的からしても、少なくとも生活の上で問題が生じるような扱いをされることはないと思われる。要は、こちらとの違いに僕が早期に慣れるかどうかだろう。


 夕食時には、兄はようやく降りてきて食卓に着いていた。

 しかし、僕の方は一切見ようとせず、誰とも言葉を交わさない。

 父と母も、それに何も言おうとはしなかった。


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