第59話 赤ん坊、新領地を考える

 次に目覚めた、ときも夜中と変わらないことに、ちょっと驚いた。

 ベティーナが、顔を拭いてくれている。

 室内は、もう明るい。いつもの朝の起床とそれほど違いはないだろう。

 まさかベティーナはずっとついていてくれたのか、と疑ってみたけれど、テーブルにランプがないところを見ると、改めて朝やってきたということらしい。

 見直すと、まだ幼い子守りの顔は、半べそになりかけている。


「ルート様……」

「ん?」

「赤ちゃんは、もっと泣いたりわがまま言ったり、していいと思います!」

「ん?」

「ルート様が『王宮楽しみ』って言ってご機嫌を装っているの、みんな気がついてます。心の中では泣いていて、昨日も今日も、寝ながら涙こぼして……」


――ありゃ。


 今日だけじゃなく、前の夜も、だったか。秘かにベティーナが拭ってくれていたらしい。

 さすがに二夜続いて我慢できなくなったようで、今にも涙を落としそうな顔に唇を震わせている。


「ウォルフ様だって、ルート様に怒ってるんじゃないですよ。ルート様が家に未練残さないようにするんだって。怒ってるとしたら、何もできない自分が歯がゆいんだって、言ってらっしゃいました」

「ん」


――知ってた。


「お二人とも、そこまで我慢することないと思います! 子どもなんだから、もっと――」

「べてぃな」

「はい?」

「おとこのこ、いじはる」

「は……い」

「よわね、きがちゅかないふりする。それが、いいおんな」

「はあ……」

「みないふり、しなさい」

「……はい」


 ずり、と寝返りを打って。ベッドの縁に身を起こす。

 着替えを持ち出して、ベティーナは寝間着を脱がせてくれる。


「きょう、おいわいのひ」

「はい、そうですね」

「わらってすごす」

「ルート様……」


 間もなく、ミリッツァも目を覚まして。ご機嫌な笑い声に一気に室内が明るくなった。

 いつもの、変哲もない朝の日課に入る。


 朝食後から、使用人たちは宴の支度に動き回る。

 執事の指示で、女性陣、料理人たちは総出の態勢だ。

 残された主人一家とヘルフリート、護衛たちは居間に固まることになった。

 母はいつものイズベルガを隣にしていないが、変わりなく裁縫。

 兄はベティーナの代わりを引き受けて、床に座り込んでミリッツァを遊ばせている。

 父は僕を膝に乗せ、ソファに落ち着く。横手の椅子にヘルフリートを招いて、仕事の話。新領地についてとりあえずの調査結果を聞くという。

 結果的に、兄と僕もご相伴にあずかって情報を得ることになる。


 旧ディミタル男爵領は南北に細長く、大まかに『北』『中央』『南』の三地域に区分されていた。『北』地域がすでにベルシュマン男爵領に組み入れられている東ヴィンクラー村だ。

『南』地域の南端でも隣のエルツベルガー侯爵領の領都ツェンダーより北にあり、もともとの我がベルシュマン男爵領に次ぐ北の果てといった位置どりになっている。

『中央』がいわば領都にあたるわけだが、豪華な領主邸の他にはほとんど周りに際だった建物もなく、ほぼ農地だけが広がっている。『北』と『南』は完全に農村だ。

 すでに把握しているように東ヴィンクラー村の人口は三百人余りだが、残りの『中央』と『南』でも合わせても千人に満たない程度らしい。とは言えこれで、ベルシュマン男爵領改め子爵領の人口は千五百人程度、現在の三倍近くに増えることになる。その前、今年初めまでと比べると、七倍以上だ。

 主要な農産物は小麦だが、以前から話題になっていたように収穫量は頭打ち。国税に充当するのがやっとという状況だ。その他に目立った産物はなく、自家用に細々と葉物野菜を栽培している程度という。つまりは「金になるのは白小麦だけ」という考えの領主に尻を叩かれて、その増産だけに躍起になっていたということらしい。

 あと、『北』ではこちらの西ヴィンクラー村と同様に、白小麦の畑に嫌でも黒小麦が混じってくる状態。この黒小麦が、『中央』『南』と南下するにつれて、ナガムギと呼ばれる別種の穀物に取って代わられていく。王都などではあまり歓迎されない作物だが、粥などにすると黒小麦より食いでがあるので、『中央』『南』では『北』より貧窮して餓死者を出す度合いは少なかったようだ。

 この春には『中央』『南』は王領の一部に組み入れられて農作業をスタートしたわけだが、とりたてて例年と変わったことはしていない。かなり負担になっていた領税の分が緩和されて、農民たちはわずかに安堵している現状らしい。


「この春の植えつけには間に合わなかったわけですが、東西ヴィンクラー村で試みているような輪作を導入すれば、これらの地域でも白小麦の収穫量の改善が見込めるかもしれません。それ以上に、他の作物で収入を増やすことは可能と思われます」

「ふむ。東ヴィンクラー村では、白小麦にゴロイモ、キマメ、アマカブを組み合わせて輪作にすることにしたんだったな」

「はい、それと同様のことが可能かどうか、ですね。少なくともこれらのうち、アマカブは今のままでは北方でしか栽培できない可能性があります。キマメは、他の領地での実態を見る限り、かなり南方でも栽培できそうです。ゴロイモは、試してみなければ何とも言えませんね。アマカブも含めて、工夫次第で何とかなるかもしれませんし」

「うむ。数年見なければならないかもしれぬが、試してみる価値はあるか」

「御意、ですね。あと、『南』地域の一部で水の便が悪い問題があるようで、手当が必要かもしれません」

「何にしろ、金がかかることになりそうだな」


 ヘルフリートの報告に、父は思いきり渋面を作っている。

 膝に抱いた僕のお腹を数回ぽんぽんと叩いて、考え込む。


「他に気になるのは、何と言うか、領民感情の問題だな。この短い期間でディミタル男爵領から王領となり、またいきなりベルシュマン子爵領に組み入れられるわけだ。落ち着かない、鬱憤のようなものが溜まっている可能性がある。あるいはもしかすると、ベルシュマンが元の領主を追い出して領地を乗っ取った、というふうに捉える向きもあるかもしれぬ」

「その辺は、少し探りを入れた限りではあまり心配なさそうです。元の領主を惜しむ声はほとんど聞こえてきません。むしろ、東ヴィンクラー村で製糖工場が稼働して潤いをもたらし始めているという噂が伝わって羨ましく思っている、同じような恩恵を受けたいという感情がけっこうあるようです。子爵領へ編入が発表されたら、まずは新領主への期待の方が強くなりそうです」

「期待が強すぎるのも、考えものだがな。言い換えると、製糖工場に匹敵するものをもたらさないと、その期待に応えられないということにならないか」

「それは、そうかもしれませんね」

「今のアマカブの生育状況だと、製糖工場を増やすのは無理なんじゃないのか?」


 ミリッツァの隣から振り向いて、兄が声をかけてきた。

 それに、ヘルフリートは眉を寄せて頷き返す。


「ですね。今年アマカブの栽培面積を増やしている分がうまくいったとしても、他の地域まで工場を拡大するのは難しいでしょう。『中央』や『南』で何か新しい作物を増やすにしても、今年中に結果を出す、というわけにはいきませんし。やはり数年見てもらわなければなりませんね」

「だろうなあ。しかしアマカブ製糖があまりにも早々に結果を出してしまったので、それに比べると不満が出ることになるかもしれないな」

「それはしかし、しかたありませんな」


 首を振って、ヘルフリートは目の前に広げた書板を集め整えている。報告は終わりらしい。

 父と兄は、ちらり顔を見合わせていた。


「まあその『中央』と『南』については、収入を増やせる作物を慎重に見極めていこう。少し前のこちらと違って、放っておくと餓死者が大量に出そう、という状態ではない。以前より領税を緩和することで、とりあえず勤労意欲は維持していけるであろう」

「そうですね」

「さすがに、領税をとらないわけにもいかぬ。その辺、どう見極めていくかだな。こちらへの編入が決まり次第、早々に将来的な方針を打ち出していかなければ」

「私も、考えさせてもらいます」


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