第60話 赤ん坊、祝宴をする

 親子で話している間に。

 僕は、少し緩んだ父の腕から身を乗り出して、テーブルの上の本を引き寄せた。何度も兄と読んでいた、植物図鑑だ。

 それを見て、ヘルフリートが板の本を開くのに手を貸してくれる。


「何か気になることがあるのですか、ルートルフ様?」

「ん」

「何でしょう」

「ながむぎ、どんなの?」

「ああ、この図鑑にもありましたね」


 頷いて、該当ページを探してくれる。

 何度か読んで、僕の記憶にも概略は残っていた。

 見た目は小麦と似ていて、穂が実った後の毛のようなものが長い。

 見た目は似ているわけだが――。


「ナガムギは小麦と違って、パンにしても美味くないんです。バリバリに固くなってひび割れたりしてしまう。天然酵母を試した者もいるみたいなんですが、さっぱり膨らまなかったらしい」

「ふうん」

「だから、食べ方としてはもっぱら粥にするんですがね。これが、時間がかかるし、美味く作るのにコツがいる。失敗して生煮えだったりダマになったりした粥は、美味くない料理の喩えに使われるぐらいなんです。王都の下級貴族や商人なんかの間では、貧乏暮らしの喩えにもなっていますね。『ナガムギの粥をすする生活には戻りたくない』って感じで。それでも、他に食うものがないときにはそこそこ腹持ちがする、ありがたい食品とも言えるわけですが」

「ふうん」

「そのナガムギが、どうかしたんですか」

「むして、ちゅぶして、かわかす」

「はい?」

「そうしとくと、にえやすくなる、かも」

「そうなんですか?」

「うまくしゅれば」

「それ、くわしく教えてください!」


 慌てて、ヘルフリートはメモを取り始める。

 横では、またぽかんと兄が父と顔を見合わせていた。


「例によって、ルートの知識がその現物とうまく合っていれば、ということだな」

「ん」

「しかしルートルフ、そうするとその蒸して潰したナガムギが、王都向けの商品になるかもしれないということか?」

「うまくしゅれば」

「確かに旦那様、ナガムギをうまく煮て、うまく味つけをして、そこそこ立派な料理にしたという例は聞いたことがあるんです。よほどの技量が必要なのと、ナガムギ自体の流通が少ないという理由で、広がりは見せていませんが」

「その、煮るという部分の技量のハードルが低くなれば、普及する可能性はあるわけだな?」

「はい」

「父上、現物を取り寄せれば、すぐにもまたここで実験ができると思います」

「うむ。やってみよう。うまくすれば、今年のうちにも『中央』や『南』で多少の収入の足しになるかもしれぬ」


 三人は興奮して、今後の打ち合わせを始めている。

 少し離れて、母がにこにことこちらを眺めている。

 打ち合わせが落ち着いてきたところで、僕は続けた。


「あと、もうひとつ」

「なんですか?」

「めをだしたながむぎで、みずあめつくれるかも」

「なんですか、ミズアメって?」

「どろりとして、あまい」

「はい?」

「そんなしょうひん、ない?」

「思い当たらないですねえ。蜂蜜とは違うんでしょう?」

「ちかいけど、ちがう」

「甘いって、ルートそれ、砂糖の代わりになるってことか?」

「ちがうけど、ちかい」

「それでも、甘いというものなら、売り物になるのではないか。ルートルフ、それはナガムギだけでできるものなのか?」

「うまくしゅれば。ながむぎと、ごろいもで」

「教えてください!」


 これも勢い込んで、ヘルフリートは僕の説明を記録していく。

 それこそ僕の『記憶』と現実のものがうまく合致しなければ空振りに終わる話で、本来なら一つずつ実験で確かめながら小出しにしていきたい知識なのだけれど。僕がここで話せるのは今日が最後で、あとはなかなか連絡がとれない状況になるはずなのだから、外れ覚悟で必要なものは出しておくしかないのだ。

 だから「めをだしたながむぎで、さけをつくれるかも」まで、話を出しておく。

 ただし、これは一朝一夕にはいかないはずなので、長期的な取り組みを考えてほしい、ともつけ加えて。


 昼食後、兄は父やヘルフリートと領地経営の相談を続けている。

 それと交代する形で、僕はミリッツァとザムと遊ぶ時間をとった。

 ミリッツァを背に乗せたザムのお尻に掴まったり放したりしながら、玄関ホールを回る。最近では、自力で半刻程度は歩くことができるようになっている。もし王宮の中で一人迷子になったとしても、どこかに辿り着くことはできるのではないかと思われる。

 ザムが大好きなミリッツァの、歌うような喜声を聞きながら。

 今夜は家人たちとお別れの宴になる予定、だけれど。ここのところずっと一緒のこの一人と一匹とは、ちゃんとした別離の言葉を交わすことはできないんだな、とぼんやり思い流す。

 本当にぼんやり、思考に浮かべたり沈めたり、するしかないのだ。考えても、もうどうしようもないことなのだから。

 明日僕がこの家を去ったあと、彼らがどういった反応を見せるのか。正直、それを見ずに済むはずの境遇を幸いと思ってしまう。

 家を出るその際は、このところ慣れた出来事として平静に見送ってくれそうだ。しかしその後時が過ぎて、僕が戻らないと知ったあとは。

 ミリッツァはばたばた這い回り、僕を探して泣き呼ばわるのだろうか。どれだけ泣いて、諦めを受け入れるものか。

 ザムは――予想もつかない。静かにその現実を受け入れるのか。落ち着かず僕を捜し回るのか。もっと苛立ちを見せ始めるのか。

 どちらにしても、兄やベティーナが宥めるのに苦労することになるのだろうと思う。

 申し訳ないけど、どうしようもない。

 ただ、事実を告げることもできず、とりあえず思い残すことのないよう、今一緒の時を楽しく過ごすだけ、だ。

 きゃきゃきゃ、とミリッツァがご機嫌の声を立て。

 僕がぐりぐりお尻の上部を撫でてやると。

 ウォン、と珍しくザムも上機嫌を告げる吠え立てを上げた。


 夕食は予定通り、使用人も含めた家人一同を食堂に集めての宴になった。

 当然、いちばん上座に父。それを挟んで母と兄が向かい合う。いつも兄と並ぶ僕だが、今日は母の隣。兄の横にはベティーナに付き添われたミリッツァが、にこにこと正面から僕に笑顔を見せている。

 以下、クラウスとイズベルガから順に、料理人や護衛たちも席に着いている。

 一緒に食卓に着かず玄関付近の警備を続けているのは、臨時雇用の傭兵たちだけだ。彼らには後刻こちらの護衛たちと交代して、いつもよりは豪勢な食事が振る舞われることになっている。

 父から「皆の尽力もあって、陞爵と増領が果たされた」旨の挨拶があり、一同の喝采を受ける。

 全員が、少し前の巣籠もりの沈痛や拝謁準備の狂躁とはうって変わって、明るい笑顔だ。

 僕からは「おせわ、なり、ありがと」だけ、挨拶で伝える。

 これにもイズベルガが「おめでとうございます」と穏やかに声を返し、使用人一同はそれに倣う。

 その後は、陞爵に絡んだ明るい話題だけが続いた。

 昨年末から新年にかけて、コロッケ販売を軌道に乗せるために屋敷の使用人たちも駆り出されて、てんやわんやだったという思い出話。

 これからは子爵家にふさわしい陣容を整えるために、使用人たちも増やさなければならない、という言い交わし。

 とりあえずは次月中に、陞爵披露の宴を大々的に開く必要がある。それに間に合うように雇用募集をしなければならないが、さしあたっては臨時雇いも考えねばならぬな、と父はクラウスと話している。

 しばらくはまた大変になる、と言いながら皆、楽しげな面持ちだ。

 その計画の中から赤ん坊が一人欠ける、という話題は誰も出さないし、僕も触れようとしない。

 賑やかな喧噪の中に、夜は更けていった。


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