第61話 赤ん坊、夜を過ごす
ヒルデや料理人たちが、食器類を片づけ始める。
護衛たちは持ち場に戻り、傭兵たちと交代する。
イズベルガとベティーナは、主人の世話。いつもより食事時間が長くなって、僕とミリッツァから入浴を済ませ、もう就寝の支度を始めなければならない。
最後の夜なので、僕は両親の寝室で寝かされることになった。当然、ミリッツァも一緒。兄も誘われていたけれど、固辞したらしい。
食卓の椅子に座ったまま、ベティーナがミリッツァの口周りを拭く奉仕を眺めていると、イズベルガが母に伺いを立てていた。
「ルートルフ様にして差し上げられるのは、お身体を綺麗にしてお出でいただくことぐらいですからね。今夜はわたしもお風呂を手伝いましょうか」
「そうねえ……」
「あ……」
聞き慣れない強ばった音声に、きょとんと母とイズベルガが視線を送る。
見ると、ミリッツァを抱き上げかけで戻した、ベティーナの手が止まっている。
「その……」
「どうしたの、ベティーナ?」
「ルート様……お世話……」
「はい」
「ベティーナの役目……しますですう……」
自分一人でする、と言いたいようだ。
僕の知る限り母やイズベルガの言いつけに逆らったことがない、子守りの声が強ばり震えている。
唇を引き結び、崩れかけを押さえたような顔つき。握りしめた小さな両手。
ようよう絞り出した声が、今にも幼く溶け落ちそうに。
ちらとイズベルガと目を合わせ、母はわずかに微笑んだ。
「そうね、ベティーナのお仕事だもの。今夜も、しっかりお願いね」
「はいい……」
ぐす、と小さく啜り上げ。
そそくさ、ミリッツァと僕を両手に抱き上げる。
「ルート様、すっかり重たくなったですう……」と、静まりきった部屋に小さな独り言が流れる。
どこかよたよたした足どりで、赤ん坊二人は運ばれていった。
温かな湯気の籠もる浴室で、僕は全身くまなく、丁寧に磨き上げられた。それこそ、足の指の間まで、念入りに。
いつもより長い時間をかけた奉仕の末、ゆったり盥の湯に浸かる。
真剣な顔つきの子守りにさっきから発声もなく、続けて洗われているミリッツァまで戸惑い気味に大人しくなっている。
すっかりベティーナに懐いたこの妹は、ご機嫌具合まで子守りと同調していることが多いのだ。
ふうう、と弛緩した息をつき、僕はそちらに声をかけた。
「みりっちゃ」
「あいい」
「ばんじゃーい」
「あんじゃー」
笑って両手を突き上げてみせると、真似っこ娘もすぐそれに倣う。
小さくくすっと笑って、ベティーナはその横腹に手拭いを滑らせた。
「ミリッツァ様、ほら、こしょこしょ――」
「きゃきゃきゃ」
「ほらこっちも、キレイキレイですう」
「わきゃきゃ」
少し力を戻した手つきで綺麗に洗われ。
同じ盥に入れられて、ミリッツァは僕に抱きついてきた。
「きゃきゃ」
「べてぃなのおふろ、いちばん。なあ」
「なあ――ちばん」
「ルート様……」
「今まで、ありがとう」とここで口にすると、堰を切ってベティーナが号泣を始めそうだ。
なので、心の中で呟くだけにする。
暴れたがる妹を押さえ、肩まで湯の中に沈めてやって。
口元を引き締めて、そのまま子守りは忙しなく周りの片づけに動いていた。
濡れた全身を拭いてもらい。
ベティーナのその奉仕が妹に移っている間に、僕は難渋しながら衣服を身につける。
最近は、この程度までは自力でできるようになっているのだ。最後の着衣具合の整えは、子守りにしてもらうのだけれど。
「はい、しっかりかっこよくなりましたあ」と襟元を直したベティーナのにっこりに、「ん」と頷き返す。
戸口に控えていたテティスが、どこか複雑そうに笑いかけてきた。
「ルートルフ様、すっかりいろいろ、お一人でできるようになられましたね」
「はいい、本当にお利口様ですう」
「はは、でも……」
「はい、王宮では無理せずお付きの者に任せた方がよいかと思います。と言うよりも、何人も世話する者がついて、自分ではさせてもらえないのではないかと」
「だよね」
元来ふつうの同年代より自立心が旺盛なのと、一人で二人の赤ん坊を世話する子守りの手間を省こうとして、いろいろできるように努めてきたけれど。これからは王族準拠の立場として、「らしくない」と行動を制限されそうな予想がされる。
まあそうなったらなったで、そこの習わしに合わせていこうと思う。
ただ今まで、何かできるようになるたび大感激してくれたベティーナの反応、それがなくなる生活が、どうも想像つかない。その辺はそれなりに、新しいお付きの者との付き合い方次第、ということになるのだろうけど。
「お風呂、終わりましたねえ。歯も磨きましたあ。あと……」
口をすぼめて、ベティーナは日課遂行を指折り数えている。
そうして、うんうんと頷き。
「じゃああとは、旦那様と奥様のお休み支度を待つだけですう」
「ん」
二人を抱えたベティーナにテティスが付き添って、廊下を歩く。
この屋敷に来てからだけでも何回もくり返した習慣が、これで最後なのだ、と改めてしみじみ思う。
居間には、両親とイズベルガだけが残っていた。兄はもう、自室へ上がったらしい。
何ということのない、歓談。その後両親が順に入浴に向かい、僕は代わる代わる残った膝上に落ち着けられた。
「ついこの間『立っち』ができるようになったと思ったら、もうずいぶん歩けるようになっているんですものね。ルートルフの進歩は、たいしたものです」
「そうですねえ」
「はい、ルート様はすごいですう」
父の入浴の間、膝に抱いた僕を揺すりながら、母は侍女たちに笑いかけている。
目を少し上方へ向けて、どこか夢見るような顔で。
「あるけるようになるの、おそいくらい」
「そこはあの、病気のせいですからね。もう全然心配なくなって、最近のルートルフの成長は順調だと思いますよ」
「ルート様の『あんよ』の練習、ご立派ですう」
「まだ、おうきゅうのなかだと、あるききれないかも」
「それは、王宮は広いですからね。でも、お付きの者が何人もいるから、心配ないですよ」
僕の心配を笑い飛ばして、母は「ねえ」とイズベルガを振り返る。
ベテランメイドは、大きく頷き返す。
「もちろん、そのはずです。それに聞いたところでは、王宮には『赤ん坊車』というのがあるそうですよ」
「ええ? 何ですかあ、それ」
「赤ん坊が入るぐらいの箱に車輪をつけたものを、お付きの者が押して歩くのだそうです。本当に後宮の中は広いですから、抱いて歩くより安全なのでしょう」
「そうなんですかあ」
「わたしも、それは初めて聞きました。そのようなものがあるなら、安心ですね」
「ねえ」と囁きかけて、母は僕を揺すり上げる。
乗り心地はどうなのだろうかとか、王子でもない僕にそのような高級品が使われるのだろうかとか、疑念はあるけれど、口には出さないでおく。
どんな外観なのだろうか、などと女たちのやりとりが盛り上がり、居間の中に笑い声が行き交う。
ベティーナに抱かれたミリッツァまで、つられて「きゃあきゃあ」と笑い出す。
戻ってきた父が「何の騒ぎだ」と苦笑するほどだった。
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