第62話 赤ん坊、両親と寝る
両親とともに寝室に入る頃には、もうミリッツァはくうくうと寝息を立てていた。
戸口で父がベティーナから娘を受け取り、ベッドに運ぶ。僕はと言うと、ずっと母の腕の中だ。
寝台でも、ぴったり母に寄り添う位置に落ち着けられた。ここはいつも通り背中に妹が貼りつき、その向こうに父が横になる。
柔らかな胸元に抱き寄せられ、何度もさわさわと髪を撫でられ。
「身一つで行くのですから、身体だけは元気でなければなりません。明日は王太子殿下と懇談だそうですので、寝不足で参るわけにはいきませんからね。よく眠るのですよ」
「は」
「母から、何も言うことはありません。ルートルフは、しっかりお勤めを果たすのですよ」
「は」
「無理しないで、身体は壊さないように」
「は」
「それに……」
「何も言うことはない」と言いながら、何ということもない言い渡しがぽつぽつと続くのだ。
その一つ一つに、僕は頷いて聞く。
続くうち、囁きは同じようなくり返しになり、途絶えがちになり。
ひときわ強く、僕の頭は胸元に締め寄せられていた。
「これは、覚えていてはいけません。忘れなさい」
「え」
「我慢できなくなったら、帰ってきなさい。赤ん坊らしく聞き分けなくぐずったら、誰も駄目だと言えません」
「……は」
「ルートルフは赤ん坊なのだから、本来そんな、我慢することはないのです」
「ん」
「……でも、忘れて……しっかり勤めなさい」
「は」
言っていることがいい加減、辻褄合わなくなってきているのだけれど。
それでも一つ一つ、熱く耳から染み渡る。
すりすりと、肌触りのいい母の寝間着に、額を擦りつける。
「かえらない。しっかりつとめる」
「はい」
「かあちゃとみりっちゃのいるくに、まもる」
「……はい」
それきり、言葉は途切れて。さわりさわり、後ろ髪が撫でられる。
その手が時おり離れ、さらに後ろへすり動く。それを感じて。
考え、わずか迷ってから、やはり口にすることにした。
「ちーうえ、はーうえ」
「ん、何だ」
「何」
「ばかなこと、わらっていい、けど、たしかめたい」
「何なの?」
「みりっちゃ」
「はい」
「もしかして……ろーたるのこども?」
「え?」
頭撫での手が止まり。
背中の方で、息を呑む気配。
数度呼吸の後、父の硬い囁き声が流れてきた。
「何でそんな、思う?」
「ははおやしんだ。しばらくしらなかったって」
「うむ」
「へるふりーと、きがちゅかないわけ、ない」
父が騎士階級の娘と付き合うようになり、子どもを設けた。それはいい。
しかしそれを、毎日ほぼ離れず仕えるヘルフリートの目を盗んでできるはずがない。そもそも、聞いた限りの事情なら秘密にする理由もない。
その付き合いと出産が事実なら、まず絶対ヘルフリートは知っていたはずだ。
昨秋過ぎから父が忙しくなり、母娘の元を訪ねることが減った。母親が死亡したことにしばらく気がつかなかった。それも父だけならあり得るかもしれない。
しかし、ヘルフリートが承知していて、そんな事態になることはあり得ない、と思う。
主君の実子が存在しているのだ。何か月も目を離すことなど、するはずがない。絶対少なくとも、近所の者に渡りをつけてもしものとき連絡があるようにするなど、処置をとっていたはずだ。
ヘルフリートがそういう動きをしなかったというなら、ミリッツァは父の実子ではない、としか考えられない。
では何故、父は自分の子として引きとることにしたのか。
そのような事情の生じる相手、僕が知る限り、ロータルという人物しか考えられない。
長年父の親友であり、護衛を務め、この冬の初めに父を庇って殉死した男だ。
その少し前、妻を亡くしていたという。
もしその死因が、娘を出産したことに絡むものだったとしたら。
主君が突然多忙になっていた
突然の父親の死亡。とりあえず娘を預けていた先に詳しい情報が伝わらず、数か月連絡がとれずにいた、ということはあり得るだろう。
この春になって初めて親友の忘れ形見の存在を知り、父がその処遇を考えたということではないか。
長年の友人で殉死した護衛への報償として、これ以上ない機会。この娘を、何不自由ない環境で育ててやりたい。
考えられる限り最高の選択は、男爵家の実子として引きとる、という判断だったはずだ。
「もしそうだとすると、ルートルフ、お前はどうするのだ?」
「なにも……みりっちゃ、いもうと」
「……そうか」
「でも」
「何だ」
「みりっちゃ、なきやまない、だったら、かあちゃ、だいてあやす、いい、おもう」
「え」
想像通り、ミリッツァがロータルの子どもだとしたら。父はまちがいなく、母に相談を持ちかけているはずだ。かの護衛は、両親二人にとって大事な存在だったと聞いている。
まずまちがいなく、ミリッツァが父の実子であると自然に周囲に受け入れられるようにという意図で、母は表面上拒絶の態度を選択したのだと思う。
屋敷の使用人たちや領民たちに完全に実子と信じ込ませることが、最もミリッツァの立場をよくするはずだから。
秘密を知る者は、少ないほどいい。両親以外に真実を知るのは、ヘルフリートくらいか。クラウスとヘンリックが微妙なところ、という気がする。
その辺、確かめる気も起きないけど。ここで、肝心なのは。
長年傍にいた、親しい友人の忘れ形見なのだ。母に、ミリッツァを愛しみたいという気がないはずがない。
そもそも以前から、実子が男の子二人だから「もう一人は女の子がほしい」と、よくイズベルガと話している。身体が弱いせいでなかなか希望を実現できないのが悔しい、と。
そして実際母は、「この子を自分の近くに寄せないで」と使用人たちに命じながら、ミリッツァを自分のいる同じ部屋で遊ばせることに忌避感を見せていない。
それどころか――たぶん僕しか気づいていないだろうけど――他の者に気づかれない程度にちょくちょく、娘の動きを目で追っている。さらにしばしば、僕を撫でたり抱き寄せたりするどさくさに紛れて、傍にいるミリッツァに触れようとする仕草を見せているのだ。
母に、ミリッツァへの情愛は、まちがいなくある。
それなら、それをこの機会に解禁すればいいと思う。
僕がいなくなったことを知れば、おそらくまちがいなく、ミリッツァは泣き止まなくなるだろう。
これまでの例からして、ベティーナや兄でも宥め抑えきれないはずだ。
どこまで効果があるかは分からない。けれどそこでしかたなくの打開策として、母がミリッツァを抱き宥める行為を始めるのに、周囲から不審の目を寄せられることはないだろう。
ミリッツァにとっても、子守りや兄弟以上に、母親代わりとなる存在の抱擁は大きな慰めになるはずだ。
災い転じて福、とばかりに、これを母とミリッツァの関係を変える機会にすることはできると思う。
そう、ここまで具体的に僕が告げたわけではないけれど。少し考えて、母は静かに頷いた。
「そうですね。それもいいかと思います」
「だな」
両親の納得を確かめて、僕はもぞもぞとさらに母の胸元へ全身を密着させた。
温かく、柔らかく、甘く。
明日以降はともかく、今夜だけは、ミリッツァにもこの位置を譲りたくない、と思ってしまう。
朝を迎えたら、新しい生活に歩み出さなければならない。その前に、この温もりをしっかり噛みしめておこう、と。
それでも現状を満喫するゆとりもなく、いつの間にか僕は眠りに沈んでいた。
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