第63話 赤ん坊、家を出る
抱き上げられて、目を覚ました。
「はいベティーナ、お願いね」
母の手から、寝台横のベティーナへ。いつもの朝の進行だ。
ミリッツァと二人抱えられて、自室へ移動。室内着に着替える。
おむつ替えの終わった妹が、機嫌よくまとわりついてくる。
「わう、きゃきゃ、るー、るー」
「ミリッツァ様、遊んでいる時間はないんですよお」
「やーやー」
引き離され、抱き上げられてなおご機嫌の様子に、安心。
朝食後早々という頃合いに王宮からの迎えが来る予定なので、本当にぐずぐずしている余裕はないのだ。
廊下で待っていたザムの背に、二人乗せられる。
そのままいつも通りに階下へ向かう、が。階段前でいきなり、僕は抱き上げられた。
むす、と無表情なままの、兄の腕に。
ひとつ揺すり上げ、やや乱暴な足どりで階段を下り出す。
もう慣れてしまった、そこそこ粗雑ながらしっかりした、兄の抱き運びだ。
「楽しみにしてた、王宮入り、だな」
「ん」
「楽しくやれよ」
「ん」
「こっちは領地の発展、あれこれ楽しみだ」
「ん」
「お前はそっちで、勝手に楽しくやれ」
「ん。たのしみ」
「ふん」
まったくこちらを見ないまま、足元に気配りをして、一歩ずつ。
すぐに一行は、食堂に入る。
もう父と母が席に着いて、笑顔で待っていた。
「お早う、ウォルフ、ルートルフ。今朝は気持のいい好天ですね」
「うむ。いかにもな夏の初日だな」
「お早うございます、父上、母上」
「はよ、じゃます」
変わりのない、朝の挨拶を交わす。
ここは、いつもの配置。兄の横に僕とミリッツァも並び、いつものように離乳食に苦闘して、朝食をとる。
ミリッツァの補助をしていたベティーナが手を伸ばして、口周りを拭いてくれる。
それを見て父と母が、唇の端だけで笑う。
食事を終え。ミリッツァを父の膝に委ね、僕はベティーナに抱かれて部屋に戻る。
国王拝謁時に着用したものに次ぐ、よそ行き仕様の服に着替えさせられる。
身なりを調えた僕をベッド縁に座らせ、数歩離れて、子守りは
「ご立派ですう。ルート様はきっと、国いちばんのお子様です」
「……そ」
「どこへ出ても恥ずかしくない、
「べてぃなや、みんなのおかげ」
「……はいい」
ず、と啜り上げのような音はしかけたけど。もう見慣れた娘の顔は目の前から消えて、僕は背中から抱き上げられていた。
用意された荷物は、旅行用の鞄が一つ。とりあえずのいくつかの着替えと、母とイズベルガが縫った涎掛けが数枚収められている。
あとは、僕が本から書き写した書板を三枚、持参していく予定。
何度見直しても、情けないほど軽装備だ。
数少ない荷物を、ヘルフリートが玄関横に配置する。
母の膝に乗せられて、半刻ほど。戸口に訪う合図があった。
迎えに訪れたのは、先日王宮内で先導してくれた年輩の執事だ。助手のような若い男を二人、後ろに従えている。
「王室執事長のウルリヒと申します。ルートルフ様をお迎えに上がりました」
「ご苦労」
父が短く応対する。
母からベティーナへ、ベティーナから執事へ、僕は順に手渡しリレーされた。
ほとんど荷物の受け渡しのような素っ気なさだが、さしあたってこの件を外部に大ごとに見せないよう、王室側も父も見解一致しての配慮だという。
家人たちに一通り会釈を回して、ウルリヒは僕を揺すり抱き収める。
「大切にお預かりいたします」
「頼む」
「しっかりお勤めするのですよ、ルートルフ」
「ん」
「これにて、失礼いたします」
大きく一礼して、僕を抱いた執事は踵を返した。
助手たちが、わずかな荷物を受けとって続く。
外には、豪奢な白塗りの馬車が一台待ち受けている。
乗り込む際振り返ると、玄関先に兄と、低頭した使用人たちが並んでいた。
両親とベティーナ、ミリッツァの姿はない。
貴族当主夫妻がここまで見送りに出ないのは、当然。
ベティーナは、ミリッツァに刺激を与えないよう、奥で遊び相手をしているのだろう。
最後までお見送りはしない、できない、とは、昨夜本人が母やイズベルガに願い出ていたところだ。
車内に落ち着き、ウルリヒは自分の隣に僕を座らせる。
「すぐ着きますので、ご辛抱ください」
「ん、わかった」
この執事は先日の謁見の間で同席していたので、自然に会話ができる。
しかし続いて乗り込む若者二人は、僕の赤ん坊らしくない応対ぶりを見てわずかに目を丸くしているようだ。
その付き添いの二人は、後ろに着席。他に護衛が二名、車体横に控えている。
御者が手綱を振るい、ゆっくり馬車は動き出した。
石畳舗装された道路ではあるし男爵家の馬車より高級品らしいので揺れは少ないようだが、やはりお尻にそれなりの振動が伝わってくる。
考えてみるとたいてい僕は馬車の中で誰かの膝の上ということが多いので、こうして座席から直接振動を感じることがあまりないのだ。
これもひとつ、これからの生活の変化なのだろうか、と思う。
先日父や兄と同道したときと同様に、王宮までの短い道を進む。
両側は貴族の屋敷がほとんどだが、先の王宮前広場が市民たちの憩いの場になっていることもあり、この日もそこそこ人通りがある。
思い返すと、王都へ来てから約ひと月、僕は屋敷と王宮、そしてこの道すがらしか目にしたことがないのだった。
そんなことをぼんやり思っていると。
「ご覧なさいませ」と、ウルリヒが僕を座席に立たせてくれた。
大きな屋敷を過ぎ、道の先に広場が開けている。
「あの人々の明るい姿は皆、ベルシュマン卿やルートルフ様のお陰でございます」
土と草が入り混じり広がり、あちこちに色とりどりの花が咲き出している。
休日ほどではないだろうが、王宮前広場には大勢の人が歩き、子どもたちが元気に走り回っている。
夏場は常設しているという屋台や見世物小屋などの、今は準備中らしく、至るところからトンカンと建設の槌音が行き交い、響鳴している。
遠く離れても、子どもの歓声が絶えず風に乗って流れてくる。
この日が七月の初日ということもあり、みんなが薄い夏の装いで身も軽げだ。
「あのまま病が治まらなければ、今頃はこの辺りも死んだようになっていたことでしょう」
「ん」
「この民衆の姿を守るのが、王族や貴族の務めでございます」
「ん」
何だか綺麗事めいたお題目、という気がしないでもないけど。
そうとでも思っていなければ、この行く先に志気は持ち続けられないかもしれない。
――王族、貴族の務め。
綺麗事でも何でもいいので、ひとつ胸に抱えておこう、と思う。
からからと喧噪の中を行き過ぎ、やがて馬車は王宮の門をくぐった。
いかにも王族の出入口らしい飾られた戸口へ、執事に抱かれて歩み入る。
この瞬間から、僕は王宮の住人となった。
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