第52話 赤ん坊、拝謁する 1

 残された父と兄は、すっかり疲れた様子でソファで脱力してしまっていた。

 ずっと抱きかかえていた僕を、隣に下ろしてしまう。それほどに、父にとって衝撃と疲労の大きなひとときだったようだ。

 二人がしばらく使い物にならないようなので、その傍らで一人、僕は今さらながらの知識を心中に再確認していた。


 王家、貴族間の、呼称敬称についての豆知識。

『陛下』と呼ばれるのは、国王のみ。逆に言うと、国王を呼称する際には『陛下』だけでいい。『国王陛下』と言ってまちがいではないが、どちらかというとくどい言い回しということになる。

 他の王族はすべて『殿下』をつけて呼ばれる。

 これは他国では違うところもあるようだが、我が国では正妃にも『殿下』がつけられる。正式には『王妃殿下』となるらしい。

 第二妃以下や、今はいないが王太子妃などになると、すべて『妃殿下』の呼称になる。

 王太子は『王太子殿下』、その他の王子王女は名前に『殿下』をつけて呼ぶ。王女は『王女殿下』とする場合もある。

 王族が貴族を呼ぶ場合、貴族間で呼び交わす場合、家名に『卿』をつけることが多い。公爵だけは特別に、これが『公』になる。

 それより下の身分、我々などが貴族当主を呼ぶときには『閣下』をつけておけば、まずまちがいない。

 まあこれらすべて、『陛下』以外はうるさいことを言わなければ『様』づけでもたいてい通用する。現代ではこの辺が緩み気味で、古くからの伝統にこだわる者たちの中には眉をひそめる傾向もあるらしいけど。

 我々がたとえばエルツベルガー侯爵を呼ぶ場合、『エルツベルガー侯爵様』というのはどちらかというと平民風、『エルツベルガー侯爵閣下』という方が貴族子弟らしい、という感覚になるようだ。


 そんな――くだらない、とは言わないが、僕にとっては緊急性のない益体もないことを思い巡らせているうち、両側の二人が生気を取り戻してきていた。

 それでもまだ、大きな溜息をつきながら。


「父上――この後の拝謁も、こんな衝撃が待ち構えているのでしょうか……」

「こんな驚かせ、何度もあって堪るか。殿下も、謁見の間でウォルフを狼狽させるのはまずいから、と仰っていただろう。拝謁の場は、そんな予想外の出来事を起こすものではない。そんなことが度々あっては、陛下も臣下たちも身が保たぬわ」

「ですよねえ」

「ちーうえ、ぼくをおっことすのだけ、かんべん」

「当たり前だ」

「……ルートは気楽で、羨ましい……」

「ん」


 えっへん、と小さな胸を張ってみせる。

 苦笑いの顔を見合わせて、父と兄は少し気力を取り戻してきたようだ。


「そろそろかと存じます」


 戸口近くで耳を澄ましていた様子のヘルフリートが、静かに声をかけてきた。

 迎えと覚しき足音が聞こえてきたのだろう。

 ヘルフリートも護衛たちも、この後はこの部屋で待機ということになるらしい。

 宮殿のこの先、大小の謁見の間などが並ぶ奥まりには、許可された者しか立ち入ることができない。もちろん王族用の護衛たちは潜んでいるのだろうけど。

 かなり年輩の執事風の男性が現れて、男爵親子を招く。

 その男の先導で緑色の絨毯の上を歩き、やがてかなり大きな飾られた扉の前に足が止まった。


「ベルシュマン男爵でございます」


 男の声かけに、一瞬の間を置いて、静かに観音開きの扉が内向けに引かれ始める。

 中は、謁見の間としては小型と聞いていた通り、それほど圧倒されるような大きさではない。三十人も押し込めばかなり窮屈になりそうな広さの床に、赤茶色の絨毯が敷き詰められている。

 窓はなく、赤と紫を基調とした色合いの人物や動物を描いたらしい刺繍の壁布が、すべての壁を覆っている。

 その中央奥、入口から十歩ほど進んだ先に、壮年の男性が椅子に腰かけている。

 王冠などの改まった豪奢な着飾りではないが、それでもかなり贅沢にあしらわれた白と紫の衣装、疑いなく国王と思われる。

 その隣、向かって右側の椅子に、先ほど会ったアルノルト王太子が掛けている。

 逆側、左隣の椅子に腰かける男性は、宰相だろう。


 二歩ほど入ったところで、父は片膝をついた。

 隣に、兄も動作を合わせる。


「ベルシュマン男爵、長子ウォルフ、次子ルートルフ、お召しにより罷り越しました」

「うむ」


 父と兄は当然深く首を垂れるが、僕はそれに倣うのもおかしいので、遠慮なく上目を正面に向けさせてもらう。

 父の挨拶に応えたのは、まちがいなく正面の、鼻下と顎に貫禄のある髭を湛えた、国王だった。

 少し近づいたためよく見える、茶色がかった金色の髪と髭、紺色の瞳、まだ白髪も顔の皺も窺えない、働き盛りといった容貌だ。座姿で定かではないが、かなり長身で引き締まった肉づきのように見える。


「顔を上げよ。楽にしてよい」

「は」


 やや背の力を緩めたように、父はわずかにだけ顔を持ち上げた。

 床につけた片膝と、胸に当てた右手は、そのまま。

「楽に」と言われても、この程度に留めるのが仕来りというものなのだろう。


「このたびの疫病対策の任におけるベルシュマン男爵の働き、真に目覚ましいものであったと聞く。其方そなたの功により、何千何万の民の命が救われた」

「もったいなきお言葉にございます。宰相閣下を始め、関係者一同の功業にございますれば」

「其方の持ち寄った案が最も功を奏したと聞いているぞ。さもなければ、二十年前の悪夢の再来であったかもしれぬと」


 穏やかな笑みを、国王はわずかに横に向ける。

 確認を求められた形の宰相は、深く頷いた。


「あのままでは、前回に勝る対応は難しかったと思われます」

「うむ。関係した誰もが同じ意見と聞く。今回のベルシュマン男爵の功績は、計り知れぬ。相応に評価せねば、国政に連なる者たちの士気にも関わると」

「身にあまるお言葉でございます」


 改めて、父のこうべが深く垂れる。

 儀礼的とも思われる少しの間を置いて、宰相がやや柔らかみを帯びた声をかけてきた。


「ベルシュマン、正直なところ今回の件については、陛下や三公評議の中でも、頭を悩ませているのだよ。いくさの功績などはいろいろ前例もありある程度基準もできているわけだが、こういった平時での目覚ましい功業についての基準といったものはまずないのでな」

「は」

「それでも、三公評議の中でかなりのところ意見の一致を見た。前回の病流行時には、万に及ぼうとする死者が出た。それが今回はベルシュマン男爵の指揮により、数十名に留まった。これは戦に当てはめれば、一万の敵軍を敗走させた指揮官に匹敵すると考えてよい」

「……は」

「実際のところ、近年我が国でそれほどの戦功を挙げた実例はないわけだがな。記録を遡れば、陞爵や増領に値すると考えて、無理はない。まだ決定として伝えることはできぬが、そうした方向で検討されている。本来であればそうした褒賞も未定のうちで尚早なわけだが、とりあえず陛下が言葉をかけたい、確かめたいこともある、ということで本日のこのような非公式なお召しになったのだ」

「は……」


 宰相の説明が本音から出たことであれば、一応この謁見の意味も納得できる。

 ただ――『確かめたいこと』という言葉が気になるわけだが。


「まあ、そういうことだ」


 言って、国王がいくぶん緩めた表情をこちらに向けてきた。


「今も宰相からあったようにな、正式な賞美などといったものは後日改めて、ということになる。とりあえず本日は、余の方から労いを伝えたかった」

「恐れ多いことにございます」

「なので、固い話はこの程度にしたい。楽にして、顔を上げよ」

「は」

「噂に聞いて確かめたかったのだがな。このたびの病対策の案、そこな子息から出たという話は、真か」

「は……その、仰せの通りにございます」

「ふむ……にわかに信じられぬほど、聡明な子息のようだな」

「は。もったいなきお言葉にございます」


 一度上げかけていた頭を、父は再度深く下げる。

 続いては、今までとは逆方向から声がかけられた。向かって右、アルノルト王太子だ。


「国の誇る医療関係者もかつて耳にしたことのない知識、対処方法と聞いたが。ウォルフ君、どこかにそのような記録でも見つけたのかい」

「は……い。以前接した知識に、もしやすると今回に役立てられるのではないかというものが」

「ふうむ。ベルシュマン卿のご子息にそのような知識があったこと、重ね重ね我が国にとって幸運だったと思うべきだね」

「過分なお言葉にございます」

「そのような教養を、これからも国のために役立ててもらいたい」

「は」


 父子が首を垂れているうち。

 前の三人が、わずかに視線を横に送ったように見えた。

 その先、左手の部屋隅から、さっきの執事らしい男性が歩み出てくる。

 父のすぐ脇まで来て、無言で木の板を差し出してくる。書かれた文字を読めということらしい。

 父が受け取り、兄も覗き込む。


【背後に賊の襲撃あり。

 直ちに、警戒すべし。】


――え?


「え?」

「え?」


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