第53話 赤ん坊、拝謁する 2
慌てて、背後を振り返る。
今し方入室してきた、豪奢な重い二枚の堅く閉じられた扉。
しかし、そこに変わったものは見られない。
――はあ?
父と兄も、同じく。
狐につままれた、というのがふさわしい素の戻った呆然顔を、前に向き戻していた。
前方の三人は、どこか苦笑の混じった顔を交互に見交わしている。
無防備にぽかんと姿勢を戻した父に、国王はひとまず悪戯めかしたという表現が近い顔を向けてきた。
「そこに書かれたことは、とりあえず冗談だ。許せ」
「は、あ……」
父が手にしたままの板を、執事が丁寧な仕草で受け取り、また下がっていく。
空になった右手をどうするか少し迷った仕草の後、父はまた胸に当てる儀礼の形に戻す。
――いや、冗談って……。
僕の覚えた困惑は、父も同じなはずだ。
さっきからの会話の流れ、そんな諧謔の混じる余地のあるものではなかった、と思う。
国王がそんな場の空気を読まない悪戯好きだったとしたら、今の「冗談だ」発言にもっとはっきりした笑いが含まれていそうなものだ。
臣下をひっかけて楽しもうとする意図だったのなら、こちら父子三人とも見事に填まって情けない驚きぶりを演じて見せたことになるのだろうから。
――え、いや――。
父子三人?
妙な引っかかりを覚えて、前方三人の顔を見回す。
その注がれる、視線の向き――。
遅まきながら、今の一幕狂言の意味が、僕の頭に染みてきた。
――しまった……。
視線はそのままに、アルノルト王太子が口を開く。
「今の書板については冗談でまちがいないんですがね、ベルシュマン卿」
「はい」
「一つ、冗談では済まないことがあるんだ。正直に答えてもらえますか」
「は。何でしょうか」
若い王太子の視線がわずかに動き、こちら三人の顔をなぞる。
ぽかんと、父と兄はまだ意味が分からない様子だけれど。
「そこの、赤ん坊のルートルフ君――」
王太子の言葉に、初めて上座の三人の視線の行方に気がついた、ようだ。
「文字が読めて意味を理解できているわけですね?」
「え?!」
「いや、その……」
「ここまで見事に、求めていた回答が得られるとまでは予想していなかったんですがね。今の書板を見て、真っ先に後ろを振り向いたのは、ルートルフ君だったのです」
「え……」
「これが、父や兄の動作を真似て、というならまだ話も分かる。しかしその父や兄に先んじて、真っ先に反応したのです。書かれた文字を読んで理解したとしか考えられない」
「………」
――ひっかかって、しまった……。
「なかなか信じがたいことだが、先日そちらの領地を訪問したときも、さっきあちらの部屋で話したときも、気になっていたのですよ。正面に座った、ルートルフ君の表情が。赤ん坊らしい無邪気な様子の中に、ときどきどうもこちらの話を理解しているのではないかとしか思えない反応が混じる」
「………」
「申し訳ないが試させてもらった今の一幕、そして今現在の卿とウォルフ君の表情からして、私の疑念に確証が得られたと思います」
「う……その……」
「どうなのですか、卿」
目を閉じて、約二呼吸。
見上げ、視線の合った父に、小さく頷きを返す。
ふう、と父の口に長い息が漏れた。
「――殿下の、仰せの通り、です」
「そう」
「申し訳ございません。正直に話しても到底信じてはもらえないものと思い、外には秘密にしておりました」
「それは、無理のないところですね」
頷いて、王太子は父親の顔に目を転じた。
予め話を通じて予想していたことなのだろうが、それでも国王と宰相は「信じられない」とばかりに瞬きを忘れている。
ほお、と思い出したように息を吐き、高貴な目が僕の顔向きに戻った。
「それでは――真にその赤子、言葉を理解していると申すか」
数呼吸間の、沈黙。
諦め、意を決して、僕は首を縦に動かした。
「はい、へいか」
ひゅ、という音は、宰相の口から漏れたようだ。
「その、でも……くち、まわりゃず、ごぶれいを……」
「おお」王は、苦笑の顔で呻きを漏らす。「いや、無理をせず話しやすいようにで構わぬ。余とて、一歳児に無駄な儀礼を求めぬ」
「おそれいり……ましゅ……」
「無理せずともよい、と申すに」
苦笑を深めて、国王は父に目を移す。
「すると、ルートルフと申したか、その次男、つまりは赤子離れをした知能を有するというわけだな」
「は。ここなる長男と、同等に議論できる程度には」
「それほどにか。長男は、十一歳であったか。しかし年齢以上に聡明と聞くが」
「恐縮至極、に存じます」
「その十一歳と、同等とな」
「これは、ある意味奇跡と申せましょうな」
国王の歎声に、宰相が相鎚を返す。
唸り合う年長者たちにちらり目を送ってから、王太子はこちらに向き直ってきた。
「ご子息の奇跡的な聡明さには、私も賛辞を惜しまない。男爵家にとっても国にとっても喜ばしい限り、というわけですが。もう一つ、確かめたいことがあります」
「何でしょうか」
「卿、というより、ウォルフ君に尋ねた方がいいのかな。ここしばらくのベルシュマン男爵家から発祥している数々の情報だけれどね、そのほとんどはウォルフ君が何処からか知識を得た、たとえば天然酵母やゴロイモ、キマメの扱いなどは古文書から見つけた、と聞いている」
「……は」
「しかし私の調べた限り、同じようなことが記述されている古文書のようなものは、まったく見つけることができないのだよ。我が国の英知、知識を集めたはずの、大学の図書を調べ尽くしてもね。辛うじて、片隅に忘れられていた農民の記録に『キマメはもっと水に漬ければ食べやすくなるかもしれない』という記述を見つけた程度だ」
「……は」
「もちろん、同じ本があちこちにあるわけでもないのだから、中央にない知識の載った古文書がベルシュマン男爵家に所蔵されていた、という可能性はある。しかしベッセルに訊く限りで、男爵家の蔵書数はそれほど多いものではないそうではないか」
「……仰せの通り、です」
「それらから想像されるところでは、ウォルフ君はこれほどに領地や国に有益な知識を、偶然と言うかこれも奇跡的と言ってよさそうな方法で得たことになりそうだ」
「………」
「次男は赤子として奇跡的な聡明さを有している。長男は何処からか奇跡的な方法で知識を得ている。研究者の端くれである身として、これはなかなかに信じがたいことなのだよ。何というか、同じ家に信じられない奇跡が二つも起きるなど」
「……は」
「それよりは、さらに信じがたいような奇跡が一つ起きたんだという方が、まだ信じられると言える」
「は……」
返答に詰まって、兄は低頭をさらに深めている。
助けを請うようにその横目がちらりと流れ、父は一度目を閉じて息を整えた。
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