第51話 赤ん坊、王太子と会う

 入室してきた男性の顔を一瞬見るなり、父は床に片膝をつく。

 同時に右手を胸に当てる、僕は初めて目にした高貴な方への礼だ。


「これは、王太子殿下」

「……え?」


 ぽかんとしていた兄もわずかに遅れて、父に並んで動作を合わせる。

 慌て気味の父の動作に膝と胸に挟まれ窒息しそうになりながら、僕は辛うじて視線を持ち上げることができた。

 供を二人連れて歩み入ってきた水色の模様が入った正装の若い男は、やや悪戯っぽい笑みを湛えている。


「いや、顔を上げて。楽にしてください」

「いえ、その……」

「時間がないので、手早く用を済ましたいんだ。そこのウォルフ君の顔、それを謁見の間でさせるわけにはいかないから、無理を押してきたわけで」


 指摘の通り、兄はまだわずかに持ち上げた目をまん丸に瞠ったままなのだ。

 くすくす笑いの様子で、王太子は我々の前を横切る。


「椅子を借りてもいいかな」

「は、はい、もちろん」

「本当に時間がないのでね、ここは細かい手続きや儀礼は抜きにしましょう。あなたたちもそこに座ってください」


 ソファに腰かけ、向かいを手で差し示す。

 恐縮の態溢れんばかりのまま、父はぎこちなく指示に従う。兄も心ここにないような動きで、その隣に身を沈めた。

 おどおどともたげる視線の先、まだ王太子は悪戯っぽく笑いを浮かべている。

 兄の戸惑いも、無理ないことなのだ。

 その対面にした若い男の顔、兄にも僕にも見覚えのあるものだったのだから。


「あの……」

「ウォルフ君には、その節はお世話になったね」

「――アルノルト、様、ですよね?」

「アルノルト王太子殿下だ、お名前は存じ上げているだろう」


 たしなめる口調の父に。

 王太子は苦笑を向けた。


「責めないであげてください、ベルシュマン卿。数ヶ月前、冬の終わり頃に私がお宅の領地を訪問した際の話をしているのです」

「は――殿下が、我が領地へ?」

「忍びで身分を明かさなかったのでね、そんな報告は上がっていないと思います」

「そう――だったのですか」

「身分は隠したけれど、あのときの話に嘘偽りはなかったのですよ。ベッセル先輩の論文を読んで、ベルシュマン男爵領の現状に興味を抑えられなくなって、お邪魔したわけで」

「はあ……」

「思った以上の成果を得られて、大満足の小旅行でした」

「いえ、その……その節は、ご無礼を」

「いやいや」


 固く頭を下げる兄に、王太子はひらひらと手を振る。

 その顔は、変わらず悪戯めかした笑みのままだ。


「多少の齟齬は、こちらが勝手に隠し事をしていたせいなのだから、気にしないで」

「は……い」

「そもそも我々には一応血の縁があるわけで、状況がが許されていれば、もっと幼いうちから叔父上に遊んでもらったり、従弟と交流を持ったりしていても不思議はなかったわけだしね」

「はあ」

「それと隠し事とは言ってもね、あのとき私は、ほぼ嘘をついたということはないはずなのですよ。ベッセル先輩の後輩で、現在も大学で研究をしているのは事実だし」

「そうなのですか」

「アルノルト・フイヴェールツと名乗ったはずだけどね、これは論文を書く際の筆名なので。著述家が取材先で筆名を名乗っても、別に嘘つきと呼ばれることはないよね」

「はあ……」

「あと際どいのは、あれかな。貧乏貴族の三男と自己紹介したと思う」

「そうでした」

「上に死亡した兄が二人いるのでね、私が三男だということにまちがいはない。それにこれは自虐的表現になるけど、現状のグートハイル王国が周辺国に比べて貧乏と卑下しても、ことさら嘘つきと責められることはないだろう」

「いや、それは……」


――それは少し、強弁でしょう。


 僕は胸の内で言い返したけど。

 同様の言葉を口にできないでいる兄を、殿下はくすくす笑いで見ている。


――絶対この人、確信犯だ。いや、語意の正誤際どいところで。


 思わず、『記憶』の呟きを胸に染み渡らせてしまった。

 そんな僕の頭のすぐ上に、「それにしても……」と父は鈍い呻きを漏らしている。


「いえその、ベッセル先生の後輩の研究者が訪問されたということは確かに報告を受けておりますが、単身でいらしたと聞いています。まさか、王太子殿下があのような地へお一人で?」

「いや、護衛は三人連れていましたよ。男爵領に入ってからは離れて、林の中などに身を隠して移動させたけどね。隠密行動が得意な者たちなので」

「そう――ですか」

「ああそう言えば、あのときの女性護衛、そこにいる、確かテティスと言ったね。彼女は遠くから監察する気配に気づいていたみたいだったね」

「は」


 戸口脇に立っていたテティスが、背筋を硬くして頭を下げた。


「その節は、ご無礼をいたしました」

「いやいや、立派な護衛ぶりでした。うちの連中も、あの気配に気づかれるとは、と後から反省していたよ」

「は……恐縮です」


 思い出した。あのとき、テティスは何か遠くからの気配に気づいていたようだったが、ザムに警戒の様子がないのでそれ以上追及しなかったのだ。

 ザムは生き物の気配と同時に、相手の殺意や敵意を感知する。王太子の護衛に、それを感じなかったということだろう。

 僕らの散歩の際にただ遠巻きに視線を向ける人間は、村の内外で珍しくない。


「それよりも卿、伝えておきたいのはね。あのときの訪問でいちばんの収穫は、ウォルフ君とベッセル先輩を交えた話し合いだったのですよ。ああ、そこの次男殿も一緒だったね」

「あ、はい」

「何よりもお宅のご子息の、領地と国の両方を見据えたビジョンで、国益に寄与することを優先していきたいという考えだね。学院入学前の若さでこれほどの見識と覚悟を持った貴族子弟を、私はこれまで見たことがない。将来が楽しみというか。末恐ろしいというか、だ」

「は、はい、恐縮です」

「順当な考えでいけば、将来私が王位を継ぐことになったら、傍で役立ってくれることを期待したい、というところだけどね。卿も承知している通り、そんな悠長なことを言ってられない状況になっている」

「は、あ……」


 難しい顔で、父は頷く。

 その横で半知半解というような顔に眉を寄せている兄に、王太子は笑いかけた。


「ウォルフ君はさすがに、そこまで詳しく聞いていないかな」

「はい……だと思います」

「簡単に言うと最近、某隣国からかなり理不尽に強硬な要求が入ってくるようになっていてね。さすがに軍事衝突までにはそうそう至らないと思うが、貿易戦争と言えそうなものに巻き込まれる恐れがある。今の我が国の現状では、完膚なきまでやられて、何の不思議もない。国力増強と貿易に影響する産業振興の必要、待ったなしだと言えるんだ。それも、数ヶ月以内に」

「そう、なのですか」

「なのでね、卿。後から陛下からも話があると思うが、貴方とご子息の最近の功績を十分に認め、評価すると同時に、喫緊の課題へ向けて力を発揮してもらいたい。まだ若いとか、学院入学前なのにとか、そんなことを言っていられる状況じゃない」

「は……はい」

「力を貸してもらえるだろうね?」

「は。力の及びます限り」

「微力ながら、この身を賭しまして」


 父に続いて、兄も頭を下げる。

 満足そうに頷き、王太子はわずかに元の悪戯めかした笑みを戻した。


「その答えをもらえて、嬉しいよ。いいね、言質を取ったからね?」


 王族らしからぬ砕けた口調は、この人本来のものなのかもしれない。

 機嫌よさそうな様子で、気忙しげに腰を上げている。


「じゃあ、私はまだ準備があるのでね。もう少し待ってもらうと思うけど、謁見の間で会いましょう」

「は」


 男爵親子が膝をつく前、若い王太子は揚々と退出していった。


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