第50話 赤ん坊、王宮に入る

 その日の朝。

 いつもさながら、大猫にしゃぶり食べられる夢の中から意識を浮き上がらせた。

 相も変わらず、左の肩にはむはむと食らいつく小さな口の感触が湿り広がっている。

 窓板の隙間に、明るい朝日の筋が差し込んでいる。

 変わらない、平和な朝の目覚めだ。


「お早うございまーす」

「はよ」

「今日は朝からいい天気ですよお。旦那様たちの晴れの日に、ぴったりです」

「ん」


 こちらもご機嫌に入ってきたベティーナに、上掛けをめくられる。

 抱き上げられたミリッツァはすぐに目を覚まして、よく眠れたしるしのきゃきゃ声を立てている。

 僕の普段着への着替え。ミリッツァのおむつ替え。

 さっぱりしたらしい妹は、ますます機嫌よく僕の膝にまとわりついてくる。


「ダメですよお、ミリッツァ様。今日は時間がないんですからあ」

「きゃきゃきゃきゃ」


 笑いながらベティーナが腋をくすぐって抱き上げると、遊んでもらっているときの喜声でミリッツァはその胸にしがみついていた。

 ベティーナの言う通り、時間の余裕はないはずだった。

 王の拝謁に呼ばれたのは午前中の時間帯で、朝食を済ませた後、すぐ準備にかからなければならない。

 先に起こされた兄は、いつになくすぐ着替えをしてもう階下へ向かったということだ。


「お貴族らしく上品に、急ぎましょうねえ」

「……ん」


 なかなか難しいことを言いながら、ベティーナは両手に二人を抱いて部屋を出る。

 廊下には、何か使命感に燃えた顔のザムが待っていた。

 その背に二人で乗せられ、軽快な足どりで食堂へ運ばれる。


 僕らとほぼ同時に両親も降りてきて、食事が始まった。

 上座の父を挟んで、母と兄が向かい合う。

 僕とミリッツァは兄と並んで、離乳食。ミリッツァにはベティーナが補助につくが、僕は自力でスプーンを動かす。数ヶ月ながら、年長の差だ。

 いつになく兄の表情が固いのは、今日の予定を思って、だけではない。

 ずっと作法特訓を施してきたクラウスから「せっかくのお勉強が付け焼き刃に終わらないよう、当日は朝から貴族にふさわしい心構えでいてください」と言い渡され、家人一同それに協力する態勢なのだ。

 さっきのベティーナの発言も、そこから出たものだ。

 向かいから息子のぎこちない動作を見てだろう、母がくすりと笑った。


「ウォルフ、そんなに緊張の顔を見せては貴族らしくありませんよ。何があっても澄ました表情を変えないものです」

「……難しいです」

「何事も経験ですね」


 妻の視線を受けて、父は苦笑を浮かべる。

 肩をすくめて、息子に笑いかけた。


「理想を言えばその通りだがな、今日のウォルフは、好きなだけ緊張してよいぞ。陛下も宰相閣下も、学院入学前の子弟の純真さを咎めるほど狭量ではない。むしろウォルフが父の分まで緊張を引き受けてくれれば、助かる」

「まあ、旦那様」


 いつになくあからさまな表情で、母は笑う。

 夫と息子の晴れの日が、やはり嬉しいのだろう。

 一方の父は、冗談めかして隠そうとしているようだが、やはり胸の中の張りつめを拭い去れないでいるようだ。

 事実上王の面前が初体験の兄だけでなく、父も単独の拝謁は初めてなのだ。

 少し顔の強ばりを緩めながら、兄はこちらへ横目を投げてきた。


「ルートはいいよな、呑気な様子で」

「ん。きんちょ、ひつようない」

「……羨ましい」


 首を垂れる息子に、両親は声のない笑いをかけている。

 実際、どう確認しても僕に緊張の理由はない。作法に気をつける必要もないし、どんな粗相をしようとも、非難する方が狭量だとされて当然の立場だ。

 まあそれにしても、赤ん坊離れをした神経を所有しているのだから、本番が近づけば理屈抜きの感覚に襲われるのではないかとも案じていたのだけれど、今のところそんなこともない。

 我ながらどうも、それなりに強靱な心臓を持ち合わせていたようだ。

 本日のいちばんの課題は、イズベルガの力作である衣装をできるだけ汚さないこと、じゃないかと思っている。

 何度かの溜息とともに上品に急ぐ食事中、兄は家人一同の温かい微笑に包まれていた。


 食事や朝の日課を終えると、それぞれの部屋で正装への着替え。

 兄にはヒルデが、僕にはイズベルガがついて、慎重に身なりを調える。

 ベティーナは、部屋の隅でミリッツァを抱いて押さえるのが重要任務だ。


「ミリッツァ様、今日はもうルート様に抱きつくの、メッ、ですからねえ」

「あいあい」

「それにしてもルート様、素敵ですねえ。立派ですねえ」

「きゃきゃきゃ」


――赤ん坊の衣装に、立派もないんじゃないか?


 ツッコミを入れたいところだけど、ベティーナのきらきらした瞳に、何も言えなかった。

 言わなくてよかった、と再確認したのは、階下に降りてからだった。


「まああーー、ウォルフもルートルフも、素敵です。立派です」


 こういうときの母は、ベティーナと語彙能力など変わらなくなってしまう。

 兄も一瞬苦笑になりながら、大真面目な顔で服装チェックを受けていた。


「奥方は、夫を褒めてはくれぬのか」

「まあ。旦那様もご立派ですよ」


 降りてきた父の軽口を受けて、母は陽気に笑い返す。

 父も兄も舞踏会の日に正装を見ていたわけだが、今日はさらに襟回りの装飾などが増え、威容を増して見える。

 細い指で襟の刺繍の形を直し、母は夫の腕をそっと撫でていた。


「三人とも、立派にお務めを果たしてきてくださいませ」

「うむ」

「はい」

「は」


 大きく頷いて、父はイズベルガの腕から僕を受けとる。

 謁見の前後には赤ん坊に世話役がついていっても不思議はない、むしろ貴族としてはそれが当然ではないかという意見も出たのだが、父は自分で抱いていくと言い張ったのだ。貴族らしさより、息子とのスキンシップの方が大切なのだという。


 王宮までは短い道のりだが、馬車に乗ることになっている。こんな正装で徒歩移動など、あり得ないのだ。

 御者はヘルフリート、護衛のマティアス、ハラルドとテティスが脇に徒歩でつく。

 道中は、すっかり活気を取り戻した街の様子を見ることができた。

 道すがら両側はほとんどが貴族の邸宅で静かなものだが、王宮前広場には屋台も出て、大勢の人の流れが見える。

 建国祭の最終日が潰れた反動と病を克服した喜びで、しばらくお祝い気分が抜けないのだという。


 王宮の門は、先日入ったときのものではなく、横手に回った。

 というよりこちらの方が正式のところに近い、つまり格が高いらしい。もちろん外国の要人などのためにもっと正式の門はあるわけだけど、今日のベルシュマン男爵一行はいつもよりは少しよそ行き扱いになる、ということのようだ。

 しっかり馬車の通れる大きさの開門を得て、厳格に飾られた戸口に横付けする。

 明るい緑の絨毯が敷かれた通路を案内に先導されて歩き、奥の部屋に通される。そこそこ華美な応接室のような趣で、おそらく拝謁前の控え室ということになるのだろう。

 父と兄は向かい合ってソファに腰を下ろす。僕は当然、父の膝の上。


 ややしばらく待っているうち。

 戸口に、ノックの音がした。

 自然な動作で、ヘルフリートが応対に出る、が。

 直後、「え?」と、その声が引きつって聞こえてきた。


「失礼する」


 低く落ち着いた声に、反射的のように父が、続いて兄が、腰を上げていた。


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