第94話 赤ん坊、制圧させる
『犬も食わない』という言葉が、何処からか浮かんできた。意味用法として合っているものかどうか、分からないけど。
とにかく。
――基本、放っておいてよさそうだ。
本当に何か母が迷惑をかけるとかしたことがあったというなら、それなりに配慮すべきかとも思ったのだが。
――そんなの、姉妹の間で勝手にしてくれ。
としか、言いようがない。
ふん、ともう一度鼻を鳴らして。
熱に浮かされたような妃の弁舌も、ようやく収まっていた。
ただ、読書に区切りがついて退屈なのか、その後も何度も隙を見て僕の頬に手を伸ばしてくる。そのたび、「殿下の頬っぺならもっと柔らかかった」などと嘆息つきで。
煩わしいことこの上ないのだけれど、まあここは気の済むようにさせておこう、と僕はただ理不尽な仕打ちに甘んじていた。
昼食を終えても、情勢に変わりはない。
侍女四人は、傍らで製本用の原稿作成。僕と妃は、その書き上がった紙に気ままに目を通す。
妃の所蔵からさらに二冊分の物語の提供を受けて、しばらくはこの作業を続けられることになる。
数刻ほどもそうして時を過ごし、外では日が傾いてきた。
手元に奪い寄せた紙を読み終えて元に返しながら、妃はぽつり皮肉げな声を漏らした。
「侍女たちの働きはなかなかのものと認めてもよいが、この作業、もう其方がいなくても回るようじゃな」
「ん、そだね」
「製紙業なるものも、其方抜きで運用の広がりはなされているようだしの。今後も、侍女たちさえ出しておれば、殿下の執務に支障はないのではないか」
「ああ……」
「ということは、ここで其方を処刑しても拘束しても、特段殿下がお困りになるということはないわけだの。少々困惑はあっても、この先は殿下のお力で進めるという方が、外聞の意味でもよいかもしれぬ」
「まあ……かも」
「今さらじゃが、其方の扱いは妾の裁断次第じゃ。どうしようかの」
じろり、好戦的な笑みを向けてくる。
ううむ、と一考する。
長いものには大人しく巻かれていた方が賢明、なのだろうけど。
そろそろ気分的に、癪に障ってきた。
「かえる」
「ほう、どうやってじゃ」
鼻で笑う仕草で、ちらり横目が落ちてきた。
受け流して、戸口の方へ向き直る。
この部屋の護衛二人と、テティスが並び立つ。その背後に、白銀の毛並みが蹲っている。
「ててす、ざむ!」
「は!」
「せいあつ!」
「は!」
次の瞬間。
二人の護衛が立て続けに、前のめりに倒れ込んでいた。
一人は、膝裏にザムの体当たりを受けて。もう一人は、テティスの足払いを食らって。
間髪を入れず、テティスの抜刀が倒れた二人の首近くに構えられた。
「動かぬように」
「ウォン!」
喜声を上げて、ザムが僕の前に駆け寄ってくる。
ソファから飛び降りる、それだけで逞しい背中が受け止めてくれた。
屹立態勢に持ち上げられながら、僕は侍女たちを振り返った。
「みんな、いっしきかかえて、てっしゅう!」
「は、はい」
「はい」
「わ、わ――」
慌てて中腰になって、それまで筆記していた板や紙やをかき集めている。
見定め、逆側に顔を向けた。
女主人と使用人が、ぽかんと丸い目で固まっている。
「ども。おせわ、かけました」
一言かけて、ザムの首を押す。
悠々と、テティスが護衛を押さえている脇を通り、戸口を抜け出していくのだ。
後ろに、侍女たちがぱたぱたと小走りでついてくる。
全員の通過を待ってテティスも剣を引き、最後尾を守り従ってきた。
閉じた扉の奥で、何かわけの分からない音声が弾けたような。
気にせず、
幸い、途中で他の住人に出会うことはなかった。
「わあーー」
「緊張しましたあ」
部屋に入るなり、カティンカとメヒティルトは大きく息をついてしゃがみ込み。
ナディーネはこちらに恨めしげな目を向けてきた。
「ルートルフ様、こうなるなら事前に言っておいていただきたかったですう」
「いきなりじゃないと、ごえい、おさえられない」
「それはそうですけど……」
かくり首を折って、溜息をついている。
膝立ちの格好で、メヒティルトはテティスを見上げた。
「テティスさん、あんなに強いんですねえ。護衛二人、いつでも押さえられたってことですかあ」
「ザムの協力がないと、相手を無傷で、とはいかないだろうな」
「それにしても、凄いですう」
この点は、以前からの修練の賜物だ。
王宮内で牙を使わせるわけにはいかないので、いざというときにはザムに頭突きだけで対敵できるように、折を見てテティスと訓練させていたのだ。その際の指令のかけ声が『制圧』だった。
「しかし、それにしても」テティスが苦笑を向けてきた。「よかったのですか? このような強攻策に出て、妃殿下に欝憤を残すのでは」
「すくなくとも、そとにふれてまわることはしないでしょ。ごえいのふび、しれわたることになる」
「まあ、そうですか。とにかく、全員無事で重畳、ということですね」
「だね」
「ですねえ」
床に降りて、ザムの首を撫でる。
背を伸ばして立つ護衛。ようやく姿勢を戻して息をつく、侍女四人。確かに全員異状なし、だ。
しかし。
――え?
今の最後の声。何か、この部屋で違和感。
それに。え?
――四人?
顔を上げると、ようやく他の面々も気がついて、目を向けていた。
背後で石盤と板の束を抱えた、オレンジ髪の侍女に。
「あ、あは――」
注目を受けて、頭をかいたシビーラは悪びれず破顔した。
本気で今初めてその存在に気がついたようで、隣でカティンカが目を丸くしている。
「え、え? シビーラさん、何で――」
「思わず、ついてきちゃいました」
「え、え、何だって――」
「いや、カティンカの荷物が多くて、たいへんそうだから」
「え、え?」
確かにカティンカの荷物は、描きかけと描き上がりの紙に加えて下絵の書板や石盤がそれぞれ数枚と、重量的にもかなりある。
その半分程度を、シビーラが引き受けてきたことになるようだ。
しかしそれにしても、と僕は頭を抱えた。
どんな理由が立つにせよ、第二妃の侍女を断りなく強奪してきたとあっては、ただで済む問題ではない。
このまま速やかに帰らせたとしても、あの妃、それを盾に面白がって難癖をつけてくるということが十分に考えられる。
あの妃殿下にとって、王太子に対する有意性を除けば、価値判断基準のほとんどは極言して「それが面白いかどうか」に尽きているようなのだから。
その点では実の兄とよく似ているし、妹にも少なからずその片鱗はあるようなのだけれど――まあそれは今、どうでもいい。
「ててす、このこ、うごきまわらないようにかんしして」
「かしこまりました。しかし、どうなさるおつもりですか」
「ほりょにする」
「はい?」
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