第95話 赤ん坊、間諜を入れる
「めひてると、ひっきばんとぺん、よういして」
「かしこまりました」
カティンカに抱き上げられて指定席のテーブルに着いていると、メヒティルトはすぐに指示された道具を運んできた。
よいしょとテーブルに這い上がり、ペンを手に取る。
一応は丁寧に、初見の相手にも読めるようにと気をつけるが、粗筆は如何ともしようがないので諦めてもらうことにする。
【侍女を一名、預かった。
無事返してほしくば、一連の件、他言無用に願う。】
簡単に書いて、筆を置く。
横に控えたメヒティルトは、一読してぽかんと目を丸くしている。
その背後、壁際に膝を抱えさせられたシビーラは、こちら向きに「ほえーー」とばかりに口を半開きにしている。これはまあ、赤ん坊の筆記姿を初めて見た者の、標準的反応だ。
一方で、「これ、だいにひでんかのへやに、とどけて」と渡されたメヒティルトは、直立して受け取り、
「かしこまりました、直ちに。でも……」
「ん?」
「これ、捕虜宣言したら、のこのこ出かけたわたしが、替わりに向こうに捕まったりしませんか?」
「そうなったら、ほりょこうかん」
「ひえ……」
「たぶん、そうならない。むこう、ごえいのしったいで、おおごとにしたくないはず」
「……でしょうか」
「なにがあっても、めひてるとをむこうにわたす、しない」
「……お願いしますよお」
やや情けない顔で、メヒティルトは板を抱えて出かけていった。
まあ本人たちには明言できないけど、三名の中ではいちばんメヒティルトが、向こうに欲しがられる要素が少ないだろうという人選だった。
カティンカの絵はもちろん、ナディーネの整った字も、かなり妃とタベアの関心を呼んでいた。もし妃が自ら印刷製本に乗り出そうと考えたら、真っ先に欲しくなる人材だろう。
メヒティルトの美しい字もこちらにとっては代えがたい才能なのだが、おそらく麗筆というだけなら向こうにも匹敵する者はいるだろうと思われる。
つまりメヒティルトには申し訳ないけど、もしあちらで捕捉されたとしても、取り戻すためのハードルは最も低いのではないか、という判断だ。
わずかばかりの心苦しさは押し隠して、こちらでは元の生活を取り戻す活動を始める。
毎日掃除だけはしていたはずだが、一通り支障はないかと、ナディーネとカティンカが動き回る。
テティスはいつものように、入口近くに腰を下ろして待機。
その傍に膝を抱えた姿勢で
僕はというと。
床に丸まったザムの腹を枕に、久しぶりにこうした親友との密着を満喫していた。
後宮ではまず見られないだろうこんな怠惰な格好が最もシビーラの興味を惹いているようだが、気にしないことにする。
案じるまでもなく、間もなくメヒティルトは戻ってきた。
妃直筆の返信を預かってきたそうだ。
差し出されたけれど、ザムの腹から顔を上げるのが億劫だ。
「めひてると、よんで」
「は、はい、かしこまりました」
緊張の声で、読み上げられる。
それによると。
捕虜は預ける。
仕方ない、他言無用は承諾しよう。
ただし、条件がある。
今後最低月一度、新しい菓子を考案して、ルートルフ本人が届けに来るように。
ということだ。
「はあ……」
「いいんですか、そんなことで?」
「いいんじゃないの」
カティンカとナディーネが首を傾げているけれど。
僕は簡単に、頷き返した。
僕としては、妃私室への無断侵入の件だけ公にならないなら、それで十分だ。
これが知れ渡ったら、僕を排除しようとする勢力に口実を与えかねないので、面倒くさい。
おそらく妃側としてもそうした点を十分承知して、その上での交換条件なのだろう。
「あと、妃殿下からシビーラさんに、指令が書かれています」
「は、わたしにですか?」
壁際で目を丸くする先輩侍女に向けて、メヒティルトはそのまま読み上げを続けた。
シビーラには、間諜の任務を与える。
生意気な赤子の生態を記録して、最低三日に一度、報告に来ること。
未熟な侍女の業務を監視して、不備をあげつらい、妃部屋とのレベルの違いを見せつけてやること。実際に手を貸すことは禁じる。
その他については、好きにせよ。間諜として怪しまれないよう、適当にそちらの活動に協力するように。
折を見て帰還命令を出すので、それまで辛抱すること。
「――だそうです」
「はあ……」
指令を与えられた当人も、呆然気味だが。
こちらの侍女も護衛も、わけ分からず当惑一色の表情になっている。
「えーと……」と、ナディーネがこちらに訊ねかけてきた。
「間諜指令って……ふつう、相手に知られないようにこっそり出すものなんじゃないですか?」
「しらないけど。たぶん、そだろね」
「お妃殿下、どういうおつもりなんでしょう」
「しらない」
ザムの脇腹に頬を擦りつけて、一つ大欠伸。
それから、僕は壁際の間諜を見た。
「そういうことだから、しびら、しれいどおりすきにして」
「は、はい」
「ああ、なでぃね、しびらに、かみをひとたばあげて。こっそりきろくするのに、いいでしょ」
「はい、かしこまりました」
ナディーネは一度侍女部屋へ引っ込んで、言われた通り紙を携えて戻ってきた。
壁際から起き上がってそれを受け取り、シビーラは苦笑いになっている。
「いいんですかあ、秘密任務にこんな貴重なものいただいて」
「ルートルフ様の指示ですから。この部屋の侍女の、必需品なんですよ」
「では、ありがたく頂戴いたします」
苦笑の顔で、僕に向けて頭を下げてくる。
頷いて、僕はメヒティルトに向き直った。
「むこう、ようす、どうだった?」
「ああ、はい。妃殿下がこれをお書きになるのを待つ間、あちらの侍女から聞いたんですけど」
「ん」
「わたしたちが出てきた後、妃殿下、お腹を抱えて大笑いされていたそうです」
「へええ」
扉を閉じた直後、妙な音声が聞こえた気がしたのは、それだったらしい。
「護衛たちには、もっと修行をするように、と笑って仰っていたと」
「ごえい、しかられなかったんだ」
「オオカミの不意打ちに対応できなかったのは仕方ない、今後精進せよ、ということらしいです」
「ふうん」
確かに、ほとんど室内活動に限られる護衛たちが、日頃からオオカミの体当たりなどというものにまで想定しているはずもない。
と言うより、そんな事態に備えた訓練など、事実上不要レベルとしか思われないところだ。
「護衛の人たちは、テティスさんとザムの共闘態勢と、訓練を申し込みたいと言っていました。この次は不覚をとらない、と」
「ざむはだめ。ててすは、きかいがあればいっしょにくんれん、いいんじゃない?」
「はい、願ってもないことです」
頷いているテティスによると。
後宮の中に、護衛の訓練用の部屋は用意されているらしい。
僕が部屋から出ない時間を選んで、他の護衛と訓練の機会を持ちたいということだ。
確かにこちらにとってもありがたい話なので、前向きに検討するように申し渡す。
――まあとにかく、あの護衛たちが激しく叱責されなかったということで、一安心だ。
その後、侍女たちにはあちらの部屋でしていた作業の続きをさせる。
僕は、ザムを枕にお昼寝だ。
何しろ今日までは王太子に認証をもらっている休暇なのだから、誰に憚る必要もない。せっかくだから、十分身体を休めさせてもらおうと思う。
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