第96話 赤ん坊、執務に戻る
その日は夜にかけて、食事、入浴、といった個々のことは以前に戻って
物品運搬に使われる台車を見てシビーラが驚き興奮したり、浴室の物の整理に指導が入ったり、と今までにないやりとりが加わっていた。
王侯貴族の居室として、ここに明らかに欠けているものがある、という指摘もあった。茶道具だ。
主の僕に不要だというのは確かなのだが、もし来客があった場合、用意がありません、では済まされない。侍女の嗜みとしても、身につけておく必要がある。
道具の入手を要請して、後日シビーラが三人に教授する、という話になった。三人とも後宮入りの直後に最低限の指導は受けているが、ナディーネが少しましかという程度で、貴族に満足される腕前まではまだまだなのだという。
あの妃の部屋では、他以上に茶の淹れ方が重視されているのだろう、とは思われる。それにしても侍女に大切な技能なのだろうことは確かなので、ありがたく指導を受けさせることにする。
なお就寝時には侍女用のベッドが足りないわけだが、小柄なナディーネとメヒティルトが同じ寝台を使うことで相談がまとまったらしい。頭をかきながら苦笑いで、シビーラかしきりと恐縮していた。
翌日は、ナディーネだけを連れて執務室へ行くことにした。
他の三人は、後宮の部屋で昨日の続きの仕事をさせる。妃から借りてこれから書写を進める物語があるので、外へ出なくても執務ができるのだ。
何よりも、シビーラについては執務室に連れていく許可の申請のしようがない、という事情がある。
後宮の扉前から、数日ぶりに護衛二人に付き添われて移動する。
執務室でも、久しぶりのヴァルターに迎えられる。
標準表情の少ない男の顔に、かなり明らかな安堵の色が浮かんでいた。
「しんぱい、かけた」
「ご無事で、何よりです」
何しろ王太子から、僕が二日程度休む、ということを聞いただけで、詳細が分からず困惑するばかりだったらしい。一昨日執務室へ寄越したカティンカとメヒティルトにも、第二妃の部屋で休ませてもらっている、という程度にしか話をさせていない。
妃私室への侵入の
その後三日間、妃の部屋で快適に過ごさせてもらった、昨日から自室に戻っている、とだけ話す。
お伽噺と物語の製本を進めることになったという話をし、さっそくナディーネは作業小屋へ向かわせた。昨日から始めている物語の印刷製本を指揮させるのだ。
そんなやりとりをしているうちに、王太子とゲーオルクがやってきた。
「無事、来ていたか」
「ども。しんぱいかけました」
「まあ、無事ならよい。顔色もよくなったようだな」
「おかげさまで」
王太子の方にも、昨日僕が自室に戻ったことは伝わっていないだろう。
母親のあの意味深な宣言の結果どうなっているか、今日までやきもきしていたらしい。
「後に禍根を残さぬようなら、その件はもういいだろう。とりあえず、現状の確認をしよう」
「ああ、そうだな」
いつもの応接テーブルに向かって、三人で話をする。
ゲーオルクの報告では、荷車の生産は順調に進んでいるという。ホルスト、イルジー、ラグナのそれぞれの工房での指導も一段落して、三人は今日からまた王宮に来ているはずだということだ。
王太子からの話では、各領主への製紙業の説明は一通り終了した。詳細は後からヴァルターの報告を聞くことになるが、計画通りすべての製紙が稼働すれば、全国で一日三万枚以上の生産が見込めることになる、という。とりあえず役所と貴族たちが使う分としては、十分と思われる。
全国へ広める立案が調ったところで、明日から孤児たちの指導行脚を開始させる。
すでに王都とベルネット公爵領、ウェーベルン公爵領で順次製紙場の稼働が始まり出しているので、エルツベルガー侯爵領とアドラー侯爵領、ロルツィング侯爵領での指導が済めば来週中にも見込みの半数以上の生産量になりそうだ。
「あとは紙の普及が優先事項だろうが、すでに王宮内に相当量を出回らせているし、今回の説明で配付した分を領主たちも使い始めている。事務記録と通信の面での利便さが知れ渡るのも時間の問題だろう」
「ん」
「各領地での生産が始まった後も、王宮で一定量の確保が保証されているということだったな?」
「うむ。各領での生産においては、一定量の王宮での買い上げ分の確保は義務付けている。言い換えれば、それ以上の生産分は王宮に売るでも領地内で消費するでも自由、ということになる。無論、他国への無断輸出は禁止だがな」
「作れば作っただけ、利益は確保されるということになっているわけだ。農業のように、天候などに影響されることもほぼない。この新産業導入をためらう領主の気が知れないよなあ」
「だな。むしろこちらに注力しすぎて農業生産量を減じることがないよう、領主に釘を刺しておくとともに、税制や法制度に見直しをかけなければならないほどだ」
「なるほどな」
王太子の説明に、口を尖らせてゲーオルクは頷いている。
しきりと鼻を摘まみ撫でながら、何処か不満げな様子に見えなくもない。
「まあつまるところ、利に聡い領主たちは
「それを狙って焚きつけたわけだから、当然だな。ほぼ狙い通りの首尾と言える」
「これで国内の体制は、何とかなりそうだが。国外向けは大丈夫なんだろうな。他の国が紙の価値を認めて食いついてこなければ、意味はないぞ。荷車のようにひと目見て価値が伝わるようなものじゃないんだし」
「通商会議での提示のしかた次第だな。本質を伝えさえすれば、その価値を理解できない愚昧な
「そう願いたいもんだな」
「あたらしいかちも、ていじしたい」
僕が口を入れると、二人の目が集まってきた。
そろそろ赤ん坊の言い出しが意外というより、純粋に新提案への期待が募っているように見える。
「まず、こくないのきぞくに、りゅうこうをつくっていきたい」
ヴァルターに合図して、ナディーネに運ばせた絵本を三冊取り出させた。
開いて、王太子とゲーオルクの目が丸くなる。
「何だ、こりゃ?」
「見たことのない本の体裁だな。お伽噺の文章と絵が連動しているわけか」
「ん」
「つーか、何だこの絵は? 落ち着かないってか、とんでもない」
「絵としては斬新だが、子ども向けの読み物としてはまちがいなく目を惹きそうだな。ああこの噺、私が子どもの頃読んだものだな」
「ん。おうたいしでんかがよんだはなし、としてうりだす」
「宣伝に使われるのか? ――まあ、いい。つまり、貴族の子ども向けに流行を広げようというわけか。確かに受け入れられそうだし、それによって紙の価値も高まるだろうな」
「確かに、目で見て価値が伝わるか」
「ほかに、おとなむけのれんあいものがたりも、つくる」
「何と。ああそれって、母上が書かせて秘蔵しているものか」
「ん」
「よくあの母上が、承諾したものだ」
「こうしょうした。これがうれれば、さくしゃもさくひんも、ふえる」
「なるほどな」
納得の顔で、王太子は頷く。
横で、一方のゲーオルクは目を剥いていた。
「お前、妃殿下の部屋で寝込んでいたと聞いたが、その間にこんなことやっていたのか?」
「ん」
「くわ――転んでもただじゃ起きないってか」
「あの母上を説き伏せるとは、やはりたいしたものだ」
くつくつと、王太子は笑っている。
ヴァルターも自分の席で一冊を開いて、唸っていた。
「絵を添えた子ども向けっていう着眼点が凄いですね。これ、ゆくゆくは子どもが字を覚える教材にもなるんじゃないですか」
「ん。おうたいしでんかが、こんなので、はやくじをおぼえた、きいた」
「そうだったな」
「その話をつけて売り出せば、まちがいなく貴族の中に受け入れられますよ」
「ん」
ただし、これらを売り出す前に、著者や編纂者への利益配分などの制度を決めておかなければならない。
そう話すと、王太子は頷き、ヴァルターは急ぎメモをとっていた。
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