第93話 赤ん坊、姉妹の話を聞く
なお、執務室と作業場を回ってきたナディーネから、現状報告があった。王都で作業をする製紙職人たちへの指導も一段落するので、各領地での指導行脚へ孤児四人を明後日出発させる予定、ということだ。
詳細は宰相配下と商会で詰めているはずなので、明日以降確認すれば問題ないだろう。ということで、「りょうかい、ごくろうさま」と、報告を労う。
こちらの侍女たちに仕事の続きに戻らせた後も、妃とタベアは興味絶えないらしくぺらぺらと冊子をめくっている。
読み進め、タベアの目元がいつになく柔らかになっていた。
「懐かしいですね、この噺は。イレーネ様がご幼少の頃、よく語ってお聞かせしていたものです」
「そなの?」
「イレーネ様がこういうお噺を喜ばれるので、わたしの知る限りでは間に合わず、いろいろ
「へええ」
「お陰様で、王太子殿下のお世話をする際にも、そのとき集めたお噺を重宝したのです」
「ふうん」
「確かに、イレーネも殿下もこういう噺が好きであったな」
妃もいつもに不似合いなほど表情を緩めて、ゆっくりページを繰っている。
ぱらり、ぱらり、と静かな紙の音が続く。
すっかり昔話の頭になってしまったらしく、タベアはこちらに微笑みを向けてきた。
「王太子殿下のお噺好きは、ことさらでした。同じお噺でも何度もせがまれるので、わたし一人ではお相手しきれず、他の侍女でも読んでお聞かせできるようにとあの板に書き留めたものを作ったのです」
「そなの」
「それがですね……」くすりと、思い出し笑いの顔で口元を押さえている。「その、侍女が読むのさえ待ちきれず、王太子殿下はいつの間にかご自分で読めるようになってしまわれたのですよ。まだ三歳間近の
「へええ、しゅごい」
思わず、感嘆の声を上げてしまう。と。
いきなり隣から手が伸びて、頬を摘まみ上げられた。
「ひゃ……」
「此奴に感心されると、馬鹿にされた気になるわ」
「わ……」
「ルートルフ様は規格外、いっそ人外同様とお考えになるのがよろしいかと」
「……わお」
とうとう『人外』認定をされてしまった。
摘ままれた頬を撫でながら反論を思い巡らせるが、そもそも他の幼児の標準を知らないので、論じようもない。
「さんさいまえで、じ、よめる、ほかにいない?」
「聞いたことがございませんね」
「そもそもふつうの王侯貴族の家で、そんなことは実現しようがない。親もそのような躾をしようと思わぬし、よしんばできても自慢にもしなかろう」
「そなの?」
「このようなお伽噺の本など、ほぼないのだからな。他に幼児が字に触れる機会など、まずない。字を覚える動機も、利点も何処にもない」
「なるほろ」
言われてみれば、その通りだ。ふつうに乳幼児が行動する範囲に、まず文字など存在していないのだから。
家具類やその辺に置いてあるものに、名前や説明が書いてあるわけではない。『記憶』が伝えてくる『新聞』『雑誌』などというものも存在しないのだから、家の中に文字が書かれたものが転がっているという可能性はほぼない。
その必要がないのだから、子どもが少し早く読みを覚えたからといって、たいした自慢にもなりようがない。「三歳で棒を握って剣術の真似事を始めた」ということの方が、よほど自慢の種になるだろう。
生後六ヶ月で周囲や領地の情報収集を図った僕のケースは、「動機」の点でも異例中の異例なのだ。
「それでも利点ということでしたら、王太子殿下はそれを発端として読書がお好きになり、研究に興味をお持ちになるようになり、神童と呼ばれるようになったのですから。子どもの教育の面で利があることは、まちがいないところと存じます」
「だな。そう言えば、イレーネも字を読めるようになったのは早かったのではなかったか?」
「そう……ああ、思い出しました。イレーネ様にもこのような板の本、一冊だけですがお作りしたのでした。そうそう、ちょうどこの子鬼の噺です。イレーネ様がことさらお気に入りでしたので、侍女が誰でもお聞かせできるようにと考えたのです。お作りしたのが少し遅かったこともあって王太子殿下ほどではありませんでしたが、確か四歳の頃にはもう、イレーネ様もご自分でお読みになるようになっていたと思います」
「へええ」
「そうであったかの」
タベアも妃も、すっかり遠くを見る目つきになっている。
二人ほとんど差異なく、目元が緩んで。
それを見ていると。
疑念――というか、どうしても確かめたい思いが募ってくる。
あるいは、藪をつつくことになりかねないのかもしれないけど。
少しだけ迷い、結局口にすることにした。
「はーうえ……」
「ん、なんじゃ?」
「なにか、わるいこと、した?」
「何?」
一瞬、きょとんと目を丸め。
思い巡らす顔になり。
それから妃は、ようやく思い当たったらしく眉を寄せた。
当然、昨日の面会室での会話を想起したのだろう。
こちらには向かず、ほとんど茶器に向けて吐き捨てる。
「……そうじゃ、
「なに?」
「冷酷非道極まりないのじゃ、あの女は」
「……は?」
あの、標準のほほんとした人当たりのいい母に、ついぞ聞いたことのない評価だ。
しかしまちがいなく、母と接していた時間は僕よりこの妃の方が長いはず。僕が知らない一面を知っていて、何の不思議もない。
「なにか、した?」
「何か、などという生易しいことではない。人の心を引き裂く所業をしてのけたのじゃ」
「わ」
「幼き頃は、比類なき可愛さだったのじゃぞ。あの笑顔には、誰もが目を細める。妾にも顔を合わすたび『お姉ちゃま、お姉ちゃま』と甘えてくる、その様はさながら天使そのものじゃった」
「……はあ」
「にっこり笑うと片頬にだけできる笑窪も、くるくる柔らかな薄金色の髪も、ぱたぱたする小さな手も、いつも絶やさぬ甘い香りも、何もかもこの世のものと思えぬほどで、どれだけ抱いていても飽きぬ至福だったのじゃ」
「はあ」
「言葉にならぬ舌足らずの声を聞くだけでもこの上なく和まされる、眠っているその顔を見るだけでも心慰められる、まさにこの世の天使と言う他ないありようじゃった」
「……は、あ……」
相鎚の言葉も尽きかけて。
ちらと見上げると、傍らの侍女は顔を右上にあおのけて、身じろぎ一つ見せていない。
まるでこちらと目を合わすことを避け、関わりを逃れるかのようだ。
「――それが、何ということじゃ」
「はい」
「妾が王宮に上がり、しばらくは妹たちと会うことも叶わなんだ。久方ぶりに面会を得たのは、王太子殿下がお生まれになってようやく落ち着いた頃じゃった」
「は」
妃の王宮入り時点で母は七、八歳。王太子生誕時で、九歳か十歳というところか。
手早く頭の中で計算してみる。
「わずか二年と少し、会わなかっただけなのだぞ。なのに、あの冷血女――」
「は」
「『妃殿下には、ご機嫌うるわしゅう』などと申しよる」
「………」
「………」
「……えと、それ、あたりまえ、じゃ?」
「黙りおれ!」
「――は」
「『お姉ちゃま、お姉ちゃま』と甘えていた、あの妾の天使は何処へ行ったのじゃ?」
「………」
「いや、その時点でも十分に、彼奴は天使の面影そのものだったのじゃ。だが、あの柔らかな髪にも頬にも、触らせようともせぬ」
「……はあ」
「こな理不尽、あるか?」
「……は」
「妾の天使を永遠に奪い去った、彼奴は極悪非道の徒なのじゃ」
「……はあ……」
ちらと見上げる。
傍らの侍女は、さっきから微動もしていない。
「この世の天使だったのじゃ。あの無邪気な様。胸震わす可憐な声。とりわけあの、頬の柔らかな手触りときたら、何にも例えようがない」
「………」
「きゃっきゃと笑う声も、抱っこをせがむ小さな手も、眠りについたあどけない顔も――」
窓を見ると、雲一つ見えない晴天だ。
ベルシュマン子爵領もこんないい天気だろうか、と思う。
ミリッツァはどうしているだろう。
母に甘えて、笑って過ごしていればいいけど――。
思い漂わせていると、
「――むぎゅ」
いきなりしこたま、頬を摘ままれた。
いつもより少しばかり、痛い。
「聞かぬか」
「……きいてる」
「ふん」
鼻を鳴らして、頬の指は離れた。
そのまま妃は、指先に目を落としている。
「……こな手触り、比べものにもならぬわ」
――さいですか。
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