第92話 赤ん坊、新作を見る
目を覚ますと、頬を摘ままれていた。
呼吸を阻まれているというわけではないけど。慣れない感触と身動きの束縛に、のたうってしまう。
「ひゃ――ふが……」
「起きよ」
「ひゃい」
この日はカティンカの世話を受けて、着替えをする。
この部屋に留め置かれて、これで三日目だ。最初の妃の言い方だと、僕の処遇について今日断を下すということになる。
どうするつもりなのか、問い糾したいのは山々だけど、面白がって返答をはぐらかす様がありありと予想されるので、思い留まることにする。
朝食の後、この日はナディーネにできている分の物語の原稿を持たせて、送り出した。
執務室でヴァルターに現状報告をした後、作業場で昨日からのお伽噺の印刷製本の指揮を執る。でき次第その本を持ち帰り、物語の版木作成を進める指示を残してくるように、という指令だ。
こちらでは、カティンカとメヒティルトは前日の続き。
物語の挿絵とお伽噺の残り分の書写は、午前中にも終わりそうだ。
引き続き、シビーラも二人の横で補助についている。
カティンカとシビーラのコンビで恋物語の挿絵は終わり、次のお伽噺について絵の構想に入っているところだ。
僕は、ナディーネが写し終わった原稿の残りの校正。いつもの習慣を続ける妃と並んで、何となく仲よく一緒に読書、という図になっていた。
少しして、ぱったん、と心なしか今までより大きめの、板ページを落とす音がした。見ると、妃の前に開かれたページがなくなり、すぐ脇に積まれた板が揃えられている。
しばらく読み進めていた一冊を、終えたらしい。
ふうう、と満足げな息をつき、ティーカップを口に運んでいる。
「おもしろかった?」
「まあまあ、じゃな。この作者、ますます創作の腕を上げておる」
「それは、よかった」
「ふん」
何の気なしにかけた問いに、思いがけず素直な応えが返ってきた。
しかしすぐに思い返したように、妃はいつもの渋面で鼻を鳴らしていた。
しかめっ面で、僕の脇に置かれた紙の束を無造作に取り上げる。
「確かに、紙にすると手に持って読みやすいの」
「ん」
「字は――ぬう、迷うところじゃ。作者の個性が出た文字が味があっていい気もするが、こうした画一的な方が、万人に受け入れられやすいか」
「そう、おもう。これからじをおぼえるひとの、てほんにもなりやすい、おもう」
「なるほど、の」
こちらを見ずに、頷き。
そのまま、手にした原稿に読み耽り出している。
とにかく何とも、字を読むのが好きなお方のようだ。
まだ昼まで余裕があるかという頃合いに、ナディーネが戻ってきた。製本の済んだお伽噺の冊子を五冊、携えている。
予想より早い完成だが、どうも見習い彫師の作業速度が向上しているためのようだ。
妃とタベアに一冊ずつ渡し、僕も手にした冊子の周囲に侍女たちが顔を寄せてきた。
「子鬼と村人」というタイトル文字の下、躍動する子鬼の絵がまず目を惹く。
「……うむ」と小さく頷き、妃の視線は傍らの侍女の方に向いた。
「とても見やすいですね。子どもの目を惹きますし、大人でも子どもでも読みやすいと存じます」
「だな。難点は、子どもの手にかかるとすぐに破られてしまいそうなところか」
「そこは、周囲の者が気をつけてやるしかないでしょうね」
「うむ」
冷静に分析する大人たちとは対照的に、こちらの侍女一同は何処かうっとりと完成品に見入っている様子だ。
今までの図鑑類に比べても、何とはなしに「やり遂げた感」が強いといった表情に見える。
特にカティンカとシビーラにとっては、生まれて初めてと言っていい創作活動の成果を噛みしめているのではないか。
僕がゆっくりページをめくる、そのたびに四人の少女の目が輝きを増して追ってくるようだ。
「凄い、いいよこれ、カティンカ。やっぱりこれ、こっち側白い余白にして正解だったんじゃない?」
「うん……はい……」
先輩侍女のまくし立てに、画家は声を詰まらせているようだ。
最後のページまで捲り終えて。
一様に、少女たちから深い溜息が返ってきた。
「素敵な出来上がりですう……」
「いいねえ。カティンカ、本当によくやったよ」
「うん……」
「メヒティルトの字も、見やすくて凄い、いいよ」
「うんうん」
本来なら先日の作業小屋でのように、抱き合って歓声を上げたいところなのかもしれないけど。
妃とベテラン侍女の目を憚って、そっと肩や背を撫でる程度に抑えているようだ。
「なでぃねも、せいほんさぎょう、ごくろうさん」
「は、はい。ありがとうございます」
あの作業小屋での、製本作業。印刷まではともかく、複数の人間に指示を出しての製本の行程は、現状まだウィラとイーアンでは心許ないのだ。
初回の動きを見る限り、今日も手早く事を進めるためにはナディーネの仕切りが必要だろうと派遣したのだが、この早い完成を見るに、十分期待通りの働きをしてくれたようだ。
「うむ、よくできておる。これなら、このまま作り進めてもよかろう」
「ありがと、ごじゃ、ます」
決定に礼を述べると、じろりと睨み返された。
「来月、王太子殿下誕生日の宴がある。そこで貴族たちに披露して売り出すとよいのではないか。それまでに数種類用意しておくとよい」
「は」
「価格などは、これから検討ということになるのだろうな」
「ん。おうたいしでんかや、しょうかいと、そうだんのうえ」
「どうなるにせよ、そこそこ高価なものになるであろうな。気になるのは、ほとんどの者が初めて見るという中で、これが価格相応に受け入れられるか、じゃな。見た目が少しみすぼらしいと思われるかもしれぬ」
「かわのひょうしつける、かんがえてる」
「革、のお」
妃の視線が、傍らに流れる。
頷いて、タベアが応えた。
「確かに外側が革製なら、十分価値のあるものに見えるやもしれませぬね。ますます価格は上がることになりましょうけれど」
「かわびょうし、あるなし、にしゅるいうりだすてもある」
「ああ、それなら、それほど裕福でない貴族でも手が出るやもしれませぬ」
「なるほど、の」
「いろいろ、そうだん」
「うむ。まあそのようにせよ」
今までのほとんどの本は木の板製で、特別な表紙などつけていない。革製表紙ということになると、最高級品の羊皮紙製の本のイメージに近くなるはずだ。
そのどちらもこれまでは手書きによるほぼ一点もので、正式な販売ルートなどはできていない。個人的売り買いはあったにせよ、ほとんどすべて気ままな価格設定だったと思われる。
これから大量印刷して広く売り出すということになると、適正価格の設定、販売方法など、新たに検討しなければならないことが数多く行く手に横たわっている。
いろいろな思いがいちどきに頭に寄せてきて、むうう、と僕は腕を組んでいた。
「何じゃ其方、まだその出来に不満なのか?」
「んん。これはじゅうぶん、まんぞく」
「では何故、そんな難しい顔をしておる」
「りそう――このえ、いろをつけられないかと」
「色、だと?」
「確かに高級な書物の中には、色づけされたものもあるようですが。おそらく、高名な画家が直接羊皮紙に描き入れているのでしょうね」
妃の疑問声に、タベアがすぐ応えた。
ううむ、と妃は唸りながら首を振る。
「妾は文章があれば満足じゃが、確かにお伽噺などは色鮮やかな方が子どもの目を惹くじゃろうな。しかしその印刷というもので、色をつけることなどできるのか?」
「りろんじょうは。いろいんく、つくって、いろごとに、はんぎをわければ」
「聞いただけで、かなりな面倒に思えるの」
「まあ、もくひょう。ちかいしょうらい、じつげんしたい」
「ふむ」
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